★★【映画評】夏休みジブリ映画3本立て ― 借りぐらしのアリエッティ

(これがいちばん書きたかったやつなんだけど、映画があまりにひどかったので、半分は原作の童話の話になってる。久々の罵詈雑言リビューにご期待ください)

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なんかもうこの時点で絶望が極まって自殺すると思います。私がアリエッティなら。

2010年のこの映画はテレビ初公開。私も見るのはこれが初めてになる。

実は失望して怒り狂うのは確定なので、どうしても金を出して見る気にはなれなかったが、その一方で早く見たかった作品だ。というのも、原作の『床下の小人たち』(原題 The Borrowers)は幼児期の私の愛読書だったので。

参考

床下の小人たち メアリー・ノートン著

夏休みジブリ映画3本立て ― 私が宮崎駿を嫌いなわけ

夏休みジブリ映画3本立て ― 『となりのトトロ』

夏休みジブリ映画3本立て ― 『もののけ姫』

『床下の小人たち』の思い出

子供時代の私は岩波の翻訳童話の愛読者で、自分が持っているものはもちろん、図書館にある本はすべて読破していた。だいたい今の岩波少年文庫のラインナップと同じだが、昔はこんなちゃちな文庫じゃなくて、立派な箱入りのハードカバーだった。(あいにく昔持っていたシリーズはもうなくしてしまったけど、『床下の小人たち』だけならブックオフで100円で売ってたので、記憶を新しくするために買ってきた。)

その中で私のいちばんのお気に入りはC・S・ルイスの『ナルニア国物語』だったが、メアリー・ノートンのこのシリーズはたぶん五指に入るぐらい好きだった。その大好きなノートンを大嫌いなジブリが映画化するんだから、怒り狂うに決まってる。だけど、どこがどうだめか見てみたいという単なる怖いもの見たさ。
もちろん多少の期待もありましたけどね。私だってアリエッティが動いているのは見たい。もしかしたらおもしろいかもしれないという万に一つの可能性もないではないし。

(とんちんかんな)下馬評(2ちゃんねるの反応)

そんなわけで見たくはないんだけど、すごい気になってしまったのでネットの評判は見てた。主に2ちゃんねるだけど。
それで読んで仰天した。非難の嵐になるのは予想してたけど、こういう批判受けるのは予想してなかったんで。とにかくさっと斜め読みした感じでは、「後味悪い」とか、「見るといやな気分になる」とか、「登場人物がいやなやつばっかで、誰ひとりとして感情移入できるやつがいない」とか。えええ~!!!?

いや、2ちゃんが口悪いのは知ってるけどさ、悪口いうポイントが違ってない? これ、幼女向けの心温まるほのぼの童話だよ? 「つまらない」っていうんならまだわかるけどさ、なんでそれが怖いだの胸くそが悪いだのって話になるの? 私のアリエッティに何してくれたの?!

という疑問が長年胸にわだかまっていたわけだが、今回見て一言。あ、わかるわ。ていうか、これ原作とは何の関係もない、原作をくちゃくちゃ噛んで吐き捨てて、泥に落ちたところを靴のかかとで踏みにじったような奇形的な作品になっちゃってるわ。だめだこりゃ。

借りぐらしは泥棒?

たとえば、正義漢が多いネット民(笑)の間でいちばん非難が集中していたのは、

「借りじゃなくて盗みだろ。しかも盗っ人猛々しい」

ということなんだが、盗みじゃなくて借りだからBorrowersなのに本末転倒してる!

そもそもこの話って、家の中でどうでもいいような小さいものがすぐなくなるという話が発端になっていて、「それはきっと小人さんが借りていくんだね」みたいなかわいらしい発想で書かれてるのに、それをいきなり泥棒呼ばわり!

つーか、原作でも「男の子」(ここでは翔という名前が付いているが、原作では名前がない)がアリエッティに会ったばかりの頃に「借りるんじゃなくて盗むでしょ」と突っ込みを入れているが、アリエッティはまったく動じず借りと盗みの違いを説明してやる。
つまり借りぐらしが借りぐらしから盗んだらそれは泥棒だし、許されない罪だが、借りぐらしが人間から取っていくのは盗みにはならないのだ。なぜって人間は借りぐらしのために存在しているから! 小人から見ると人間ってのは図体ばかりが大きくて間抜けな奴隷に過ぎないので、盗っ人猛々しいどころの話じゃない(笑)。
その辺をなんにも説明せずに物語が始まってるから、原作を知らずに見ている人は「??」となるのも当然だ。

プロデューサーの鈴木敏夫は宮崎駿の言葉として「大衆消費の時代が終わりかけている。そういうときに、ものを買うんじゃなくて借りてくるという発想は、不景気もあるけど、時代がそうなってきたことの証だ」と書いてるけど、それぜんぜん違うってか、借りぐらしとなんの関係もない。こんなことアリエッティに言ったら鼻で笑われる。

翔はサディスト?

おもしろいから他にも2ちゃんの感想から

翔がアリエッティと対面したとき、いきなり「君たちは滅びゆく種族だからね」とか言う。

これはいちおう原作にあるセリフなんですけどね。そこに至るまでが全部省かれてるからおかしなことになる。
アリエッティの考えでは人間こそが滅びゆく種族で、というのも彼女が知ってる人間は数えるほどしかいないし、しかもその数(この家に住んでる人の数)はどんどん減ってる。それにくらべ、(映画には出てこないが)借りぐらしの家族はたくさんいるからだ。
それを聞いた男の子がむきになって、人間は他にも何億人もいるが、小人はアリエッティの他は見たことがない。だからこそ「滅びゆく種族はむしろ君たちのほうなんじゃないの?」となるわけ。
ところがそれを全部取っ払ってしまうから、翔は小人をいじめて楽しむサディストか、まともに会話のできない頭のおかしい人にしか見えない。

このセリフは実際アリエッティに不安を植え付け、他の借りぐらしを探すために外へ出て行きたいと考えるきっかけを作る大事なセリフなんですけどね。そっちの部分はすべてカットしたためによけいセリフが宙に浮いている。強い内容のセリフだけに印象だけは強いので、見ている方はこれまた「???」となるわけ。

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翔とアリエッティ

翔とアリエッティの間に何もない

これは宣伝の仕方が悪いよな。なんかアリエッティと少年の恋物語みたいなのをほのめかしてたから。『南くんの恋人』みたいなのを想像した人が多かったんじゃないか?
前述のようにアリエッティにとっては人間なんて異形の怪物なんだから、もちろん恋愛感情なんか存在するはずがない。男の子は10才で、14才のアリエッティとくらべると、体は大きくても頭の中身はネンネもいいところだし。この年代の4才差は海より深いし、特に女の子は早熟だからね。
それでも庭で男の子の肩に座って、本を読んでやるシーンなんかは美しい場面だったのだが、その最もロマンチックで美しいシーンは映画にはない

ハルが凶悪で怖い

なんかいちばんの嫌われ者が家政婦のハルさんね(笑)。駆除業者呼んで小人たちを皆殺しにしようとしたり、翔の部屋に鍵かけて閉じ込めたり、ホミリーを捕まえて瓶に入れたりして。

これはまあ、なんて言うかドライヴァおばさん(原作の家政婦)はもともと悪役として描かれているんで当然なのに、日本の観客が過剰反応してる感じが気になった。この家政婦が怖いのは小人視点で見るからで、人間視点ではごくあたりまえに職務をこなしてるだけなんですが。
駆除しようとしてるのは借りぐらしをネズミとかの同類と見ているからで、男の子を閉じ込めたのは、ドールハウスの家具を盗んでると考えた(事実だし)からで。

なのに2ちゃんの反応がやけに過敏で気になって考えたんだが、もしかしてこの人たち、使用人=奴隷と考えてない? いや、「使用人の分際でご主人様に逆らうとは」みたいな書き込みをよく見たんでね。確かに現代日本で住み込み家政婦雇っている家は少ないからなあ。それと1950年代の英国とでは差がありすぎる。
それにしても翔は明らかに泥棒なんだから、お仕置きは当然でしょ? もしかしてこの子たち、親に叱られたこともないのかな。じゃあ、そういう今どきの子が、(明らかにサディスト傾向のある理不尽で自己中心的で高圧的な暴君である)『メアリー・ポピンズ』なんて読んだら大変だね(笑)。

ホミリーがブリッコババアでウザい

これは私も感じた(笑)。とにかくひたすらウザい。次の記事で述べるように、ホミリー(アリエッティのお母さん)はこの物語の主役と言ってもいいのに、この扱いはひどすぎる。
ホミリーはこの家族の中ではいちばん肝っ玉があると言ってもいいぐらいで、いきなり天井が開いて巨人が家具を突っ込んできても、ほとんど動じないばかりか、さりげなくもっと持ってこいと指図するぐらい大胆なのに、映画ではキーキーキャーキャー騒ぐだけの役立たず女に描かれてるのは悪意しか感じない。
まあ、口やかましいお母さんなのは確かだけどね(笑)。

そういや、キャラクターもみんな変わってるなー。アリエッティはジブリの定番の明るく元気な女の子だからいいとしても、お父さんのポッドもまるで印象が違う。原作のポッドはもちろん頼れるお父さんではあるが、太っちょでけっこう愛嬌があるタイプだったのに、アニメじゃなぜかハリソン・フォードみたいな寡黙で渋い男になってる!
お父さんが異様に美化されている一方で、お母さんとハルさんの扱いがひどい、どころか徹底的に卑小化されているのは、意図したとしか思えないほどで、監督は女性恐怖症かなんかか?

話のスケールが小さい?

ほかに、

家の中だけで終わる。
話が間延びしていてなんのドラマもない。
ただ見つかったからさようならというだけ。

というような感想多数。
だってアナタ、小人の話なんだから小さくて当然じゃない! むしろ小人視点で見れば、1軒の家は広大な世界そのもので、さらにその外へ出てくってのは外国か宇宙へ出て行くようなもの。原作ではそのスケール感がすごくよく出ていて、家もめちゃくちゃ大きく感じられたのに、アニメは確かにせせこましい感じがする。

その理由は、そもそも借りぐらしの出番が少なく、このアニメがほとんど人間視点から描かれている(ほぼ翔が視点人物)からだと思う。それに対し、原作はほぼ全編小人視点で、何度も言うが、人間はただの添え物なのだ。
なんでこんなにしちゃったのかねえ? これなら別に小人はいらないじゃない。小人の代わりに珍種の蝶々かなんかでもいっしょだね。

そんなわけで、原作では人間はちらっとしか出てこないので、人間中心に描けば何も起こらないしドラマもないのは当然。それに引き替え、借りぐらしたちの暮らしはスリル満点で波瀾万丈なのに、そっちの視点が欠けてるからつまらないのも当然。

なんで日本に西洋人の小人が?

これも当然の感想でしょうね。中には「こいつら外来種じゃない」とか、ほとんど害虫同然の扱いも(笑)。これじゃあアリエッティが浮かばれないよ!
(ほんとはして欲しくないが)翻案するならちゃんと整合性持たせろよ! さっきも書いたが、50年代の英国の話を現代の日本に持ってきてる、しかもほとんど元のまんまぶち込んじゃったので矛盾だらけになるんだよなあ。

かといって「借りぐらしの田中さん一家」じゃサマにならないし、翻案するならもう借りぐらしを座敷わらしにしちゃうぐらい大胆なことしないと無理がありすぎると思う。(それはそれで見たくないが)
同様に、「親はインドにいるから病気の子供は大叔母さんの田舎の屋敷で療養する」というのは、50年代の英国の中流階級の家ならばよくある話だが、今の日本のどこに、心臓病の子供が生死に関わる手術を受けるのに海外出張から帰ってこない親がいるんだ? 都内に広大な敷地を持ち、住み込みの家政婦がいる閑静な洋館に住んでる金持ちがどれだけいるんだ?

というわけでリアリティゼロ。突っ込みどころ満載の映画になってしまった。私は途中までてっきり戦前の話だと思って見ていたよ。戦前の日本ならまあ、これぐらいの金持ちもいたかなと無意識に脳内補完してたんで。

ここで思い出すのは寺山修司が監督した『さらば箱舟』。ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の寺山版なのだが、確かマルケス本人からクレームが付いてさんざんもめて、タイトルを変えて『百年の孤独』には一切関係ないとすることで、ようやく公開できたんだよね。
私はマルケスも寺山も死ぬほど好きだったので残念だったが、確かにあれじゃ原作者は納得しないだろうと思った。映画としては非常によくできてたんだが、すべてを日本的なものに置き換えてしまったので、原作の面影はどこにもない。
これもそこまでやれば(座敷わらし?)いちおう作品としては成立しただろうが、ジブリにそれができる人がいるはずもなかった。


ここまでで「国内の反応」シリーズ終わり。ここからは私個人の原作ファンとしての感想。
と言っても、全部だめ、という以外言うことある?ってぐらい全部だめなので何を言ってよいやら(笑)。

脚本がだめ

上に書いたように原作のいい部分をバッサリ切り落とし、ないほうがいいようなオリジナル部分を付け加えたために、整合性もなければ、そもそも原作読んでない人にはまったく意味がわからない変な話になってしまった。

2ちゃんの感想を読んでも、「冒頭の借りの部分はおもしろかったのに」という声が多数で、もちろんこれは原作でもいちばんの見せ場。ていうか、これが物語の骨子なのにそれはチラッとしか見せないで、どうでもいいような部分を付け加える。

原作にないのは、たとえば猫のエピソードだが、最初はアリエッティの敵だった猫が、なんで寝返ったのかの説明一切なし。主人の顔色をうかがう犬ならともかく、独立独歩の猫は絶対にそんなことしない。
べつにおもしろくもないし、単に猫を出しておけば観客が喜ぶと考えているとしか思えない。でも猫もブサイクだし。

カラスのエピソード(カラスに襲われたアリエッティを翔が助ける)。やたら長いんだが、だから何?って感じ。単にここらでひとつアクションシーンを入れましょうというだけ。そんなもの誰も必要としていないのに。

ハルがホミリーを捕まえる話。これもおそらくここらで何かサスペンスをと思ったんだろうが、意味がないしつまらないし、もはやここまで行くと話の書けなさが痛々しいだけ。

かと思うと、絶対外しちゃいけないエピソードを削ってまで、スピナーの話なんかを入れてくる。スピナーは原作では後の巻に登場する借りぐらしで、アリエッティの未来のボーイフレンドなのだが、登場の仕方があまりにも唐突で、しかも登場したかと思ったら終わってしまうので、原作を知らずに見た人はキツネにつままれた気分だろう。
もしこのシリーズの続編が作られる予定なら、(後に重要な役柄を演じる)スピナーを早めに出しておくのもわかる。だが、これっきりで登場することもない登場人物を、終盤で紹介だけするってのも変な話。

難病ものかよ!

その「翻案」も気に入らないところだらけなんだが、いちばん許せないのはこれかな。
原作の「男の子」はリウマチ熱で療養中なのだが、読んだ感じではまあそんなにたいした病気じゃなくて、あくまで静養のため田舎に送られたという設定。なのに映画じゃ生死に関わる心臓手術を受けることになっていて、少年自身、自分が死ぬんじゃないかと思っているらしい。
リウマチ熱の症状には心臓疾患もあるらしいから、それほど無理やりではないんだが、作品の雰囲気は一変! なんか難病に苦しむ少年に小人が生きる勇気を与える話になってる! もちろん原作はまったくそんなんじゃないというのは置いといて、こんな恥ずかしい筋書きよく考えられたな。世界が違いすぎてもはや何をか言わんや。

いつもながら声優がひどい

もう言うだけむなしくなってきましたがね。今回最もひどかったのは翔の役をやった神木隆之介。誰こいつ? いや、誰でもいいが、例によっての棒読みに加えて、声が気持ち悪すぎ。私なんか冒頭、おばさんの車に乗った翔の、「はい、はい」という細い震え声聞いただけで吐きそうになったぞ。

次点でひどかったのがホミリーを演じた大竹しのぶ。彼女の場合、年から言ってお母さん役が増えてるんだろうが、顔はともかく、声は未だにロリ声なので、めちゃくちゃ老け顔に描かれたホミリーの絵との落差がこれまた気持ち悪いレベルになってしまい、なんとも言い難いグロいおばさんになってしまった。

あと、ハルを演じた樹木希林は、逆に役にはまりすぎて、どう見ても樹木希林が出てるとしか思えず、違和感ありまくり! 借りぐらしとからむ樹木希林‥‥見たくねー!!

なぜ額縁を外した?

かというと、その理由は容易に想像はできるんだけどね。つまり幼い子供や幼い子供並みの知性しか持たない大人は、構成が複雑すぎると話がわからなくなる可能性があるから。これは大学で文学教えてるとよーくわかります。

というわけで、原作はいわゆる「額縁形式」の物語になっていて、「男の子」が経験したことを聞いた姉のメイが、老後に同居していた親戚の家の娘ケイトに話して聞かせるという仕組み。
これがおもしろいのは、いわゆる「あてにならない語り手」小説になっているから。物語全体が聞いた話の、そのまた聞いた話という又聞きになっていて、だからどこまでが本当かがあいまいになっている。

しかもそれを強調するかのように、男の子は空想好きで、想像を実際の話のように語るくせがあったという設定になっている。さらに最後の最後で、これらの話の元ネタ(であり、男の子が見ていなかったはずのストーリー部分の根拠)であったアリエッティの日記の筆跡が、実は男の子の筆跡そっくりだったというネタばらしもある。
だから、話のすべてが田舎で退屈を持て余した子供の空想だったというほのめかしがある一方で、野に出た小人たちのためにメイが持っていってやった家具や食料が消えていて、近くで煮物の臭いがしたという証言もあって、よけい真偽があいまいになっている。

子供の頃はこの辺はまったく気にしていなかったが、大人になってから読むと、この現実とも空想とも受け取れるアンビギュイティがすごい面白いと思うのだが、まあこれはアニメじゃ無理かな。
でも『千と千尋の神隠し』のラストでは、トンネルの向こうの世界が本当にあったのか夢なのかを、わざとぼかした描き方をしていてすごく良かった。うまくやればこれもそういう話にできたのに。

ちなみに原作の続編では、(やはり小さい読者にあわせたのか)この設定は消え失せている。

原作ファンを敵に回すと

しかしなんでオリジナルじゃなくて原作ものにするんだろう。もちろん(宮崎が老いた今)お話書ける人がいないんだろうが、それにしても海外の、それも古典的な名作を取り上げるからにはそれなりの覚悟はあるんだろうな

これなんかかなり古い童話、ってことは全世界にこれ読んで育った人たちが(私も含めて)星の数ほどいるんだわ。で、当然その人たちは原作に深い思い入れを抱いているし、特に童話の場合、多感な時期に読むからその影響力は計り知れない。
実際、私も今回、この原作読むのって本当に子供の時以来だから半世紀はたってるというのに、ほとんど一字一句暗記してたのに驚いたぐらい。

何度も言うが、そういうファンが多数いるのを知っていて、こんなクソみたいな駄作作れる人間の神経を疑いますね。いや、むしろ原作になんの愛着もないからここまで原作を壊せるのかも。
私はどんな映画でも外人のリビューを読むのが好きで、特に日本映画の場合、外人にほめられてるといい気分になるから、IMDbのコメントとかよく読むのだが、この映画に関してだけは読みたくない。どれだけ罵倒されてるかと思うと、恥ずかしいから。いや、宮崎の威光はむしろ海外でのほうが強いから、それでも無理やりほめてるかも知れないが、それはそれでいやだし。

そういや『ゲド戦記』なんてのもあったっけ

そこでいきなり思い出したが、2ちゃんではこれは「ゲド戦記並みの失敗作」と言われていて、どうやら『ゲド戦記』もひどかったらしいんだけどどうなんだろ?

私は見てない。これも意図的に見てない。というのは、ちょうどこれと反対に、原作が嫌いだから。アーシュラ・ル=グウィンのこのファンタジーはとにかく有名だし、私はSFファンのはしくれでもあるので、もちろん読んだんだがあまりのつまらなさに幻滅した。まあル=グウィンの小説ってどれもおもしろくはないですけどね。
ただ、私は大のファンタジー・ファンで、世界的に有名なファンタジーは残らず読破してきたが、有名作品で本気でつまんなかったのはこれだけというぐらいつまらなかったのはある意味すごい。
だから当然映画もつまらないはずと信じて見なかったのだが、ネットの悪評とこの映画のひどさを見たら、かえって興味がわいて見たくなってきた。これもテレビでやってくれないかな。

でもル=グウィンも熱狂的「信者」の多い作家だしねえ。あれのファンを敵に回すのはかなりこわいな。

絵も音楽もだめだめ

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アリエッティの寝室

絵はね、最初スチルだけ見たときはちょっと期待したんですよ。きれいだと思って。だけど映画見たらやっぱりダメダメ。これは次の書評で書くつもりだけど、この小説はインテリアと小道具が何より重要なのに、それがぜんぜん活かされてない。

上の写真のアリエッティの寝室なんて一見きれいだけど、虫じゃあるまいし、こんなジャングルみたいな所に住んでないわ。そもそもインテリアのセンスがオリジナルの雰囲気と違いすぎて。
それと同時に原作に出てくる忘れがたいいろんな小道具――アリエッティのハバナ葉巻の箱のベッドとか、居間の手紙の壁紙とか、絵画代わりの切手とか、アリエッティの日記帳とかが一切登場しないのはあまりにも寂しい。
結局、道具類で多少なりとも印象的に見せたのはアリエッティが髪留めにしている洗濯ばさみ(にしては小さすぎると非難殺到)と帽子ピン(というのは原作で、映画じゃただのまち針)だけか? そのピンなんか結局拾っただけで使わずじまいというお粗末。

音楽はそんなのあったっけ?というレベル。

キャッチコピーまでおかしい

この映画の公開当時のキャッチは、「人間に見られてはいけない。それが床下の小人たちの掟だった」というものなのだが、それにしては映画が始まるなり翔に見られちゃうのもひどい。そもそもアリエッティは平気で庭を駆け回ってるし、これで見られるなというほうが無理。
もちろん原作でも「見られる」ことはタブーなんだが、それを最初から破ってる。まあ原作もポッドなんか毎晩おばさんと酒盛りしてるぐらいで(相手はポッドを酒の生んだ幻覚だと思ってる)わりといい加減だけどね。そんな掟なんていう恐ろしげなものではまったくないね。

かんじんのテーマは!

原作を知らずにこの映画を見た人の多くは、「だからなんなの?」と思ったはずだ。2ちゃんでも意味のなさ、中身のなさを非難する声が多かった。確かに小人が住み慣れた家を追われただけで、安住の地が見つかったわけではない。翔が主人公だとしても、手術が成功したのかどうかも描かれていないのでなんとも宙ぶらりん。それで結局何が言いたかったの?となるわけだ。

こうなった原因は、原作のテーマに関わる部分をすべてカットしてねじ曲げてしまったため。

次の記事で述べるようにこれはホミリーによる「専業主婦の大冒険」の物語でもあるのだが、いちおうアリエッティを主人公とすると、これは箱入り娘が親の干渉を振り切って、あこがれの新天地に出ていく話である。

ホミリーのような心配性の母親に育てられたばかりか、この屋敷に残った最後の借りぐらしの一家の一人娘という事情もあって、アリエッティは文字通りの温室育ちで、家の中だけに閉じ込められて育つ。

そのホミリーがアリエッティを脅すのに使う口実が、失踪した従姉妹のエグルティナの話。叔父さんのヘンドリアリが「見られた」のをきっかけに、「上の家」では猫を飼うようになったのだが、ある日外へ出て行ったエグルティナは二度と帰らず、それをきっかけにヘンドリアリと妻のルーピーは移住することになる。
娘の前では口にこそ出さないが、もちろん両親の考えでは、エグルティナは猫に食べられて死に、外の世界に出て行ったきり音沙汰のない叔父一家もおそらく死んだか困窮しているはず
そこへもってきて、ポッドがヘンドリアリ同様に「見られて」しまったので、エグルティナの二の舞になることを恐れて、両親の心配はアリエッティに集中するのは当然だ。

ところがアリエッティの見方は逆だ。アリエッティの側からすると、外にはすばらしいものでいっぱいなのに、両親によって不当に閉じ込められて自由を奪われているという印象を抱く。これは思春期の少女なら誰でも思い当たることがあるはず。
エグルティナや叔父一家にしたって、両親は悲観しているが、アリエッティの考えでは、エグルティナは親の束縛から逃げるために家出しただけだし、従姉妹も叔父夫婦も外の世界ですばらしい暮らしをしているかもしれないのに、両親はその可能性を考えてもみない。

このようにむずかしい年頃に差しかかったアリエッティが、男の子に出会うことであらためて外の世界へのあこがれをかき立てられ、ついには(外的な要因のせいではあるが)移住へ至るというのが原作の物語で、つまり原作は好奇心旺盛な少女の、親からの自立と冒険への出発の物語なのだ。
奇妙に思えるのは、どう考えてもこの手の元気少女が夢とあこがれを実現する物語のほうがジブリ的だと思えることだ。原作のまま映画化すれば、愛読者も納得、原作読んでない人も納得する、ジブリらしい良心的なファミリーアニメになっただろうに、映画はその部分をすべて切り捨てた。

まずいきなりアリエッティが庭を飛び回っているので、閉じ込められているという閉塞感がゼロ。その一方で、叔父さん一家はもちろん、他の借りぐらしの存在は(スピナー以外)すべて抹消されてしまい、孤独感だけが強調される

そしてラストの脱出は、アリエッティとしては長年の夢が叶い、希望を胸に広い新天地へ飛び出していくという輝かしい門出なのに、アニメでは旅の過酷さと、住み慣れた家を捨てなくてはならないつらさだけが強調された結果、陰湿で夢も希望もない話に。
特にいちばん喜んでいるはずのアリエッティがメソメソして、暗ーい顔して両親に「あたしのせいでこんなことになってごめんなさい‥‥」って、何の話かわからないぐらい別の話、しかもそのほうがおもしろいわけでも感動的なわけでもない、どっちかというと見たくも聞きたくもないような話になってしまっている。

監督が宮崎駿じゃないとここまでダメなのか。監督の米林宏昌はアニメーター出身だそうだが、確かに絵は描けても、お話作る才能とセンスはまったくないな。
この映画がテレビ放送されたのは、ちょうど同じ監督の『思い出のマーニー』が封切られたからだが、こっちも英国児童文学って、またも惨劇の予感が‥‥もうどうでもいいけどね。

そしてとどめは

などと悪い点を並べてきたが、完全にとどめを刺されたと思ったのはラストシーン。

スピナーの手を借りて、クロック一家(そういや時計の下に住んでるからクロックという名字なのだが、その話もなかったし場所も変だった)は小川に浮かべたヤカンに乗って屋敷を脱出することになるのだが、必死の思いで逃げ出して、着いた先で彼らを待っていたのは、眼下一面に広がる小金井の町‥‥‥‥。

なんかもうこの時点で絶望が極まって自殺すると思います。私がアリエッティなら。

原作では周囲は英国の田舎だから、家から逃げ出せば、外は絵に描いたように美しいのどかな田園地帯がどこまでもどこまでも広がっていて、それまでの床下暮らしの閉塞的状況(少なくともアリエッティにとっては)とくらべて、いかにもすがすがしい新天地という感じで感動的な終わり方なのに、このアニメではラストで一気にみすぼらしく夢のない現実に引き戻してくださるわけです。
イギリスの田舎だからこそアナグマの巣穴とかキツネの巣穴とかウサギの巣穴とか、借りぐらしが住める場所もいっぱいあるし、食料になるものもあったけど、小金井のどこに彼らが住める場所があるというのか?
野良猫やカラスやゴキブリと戦いながら、そこらの家の縁の下に住んでゴミ袋あさるんでしょうかねえ。あー、もうやだこんな話。

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