【アニメ評】杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』(1985)

masumura-hiroshi01(この文章は次のますむらひろし論のおまけです。最初はまぜこぜに書いてたんだけど、宮沢賢治とますむらひろしと杉井ギサブロー論がごたまぜに出てくるので混乱してきたのと、単に長くなりすぎるので分けました。あくまで書きたいのはますむらひろしの方なんで、こっちはかなりやっつけです)

なんで今ごろこんな話題を取り上げたかというと、きっかけはブックオフでますむらひろし『宮沢賢治選集』全3巻(メディア・ファクトリー 2008年)を見つけたこと。実は彼の賢治童話はひとつも読んだことがなかったんだが、それをアニメ化した映画『銀河鉄道の夜』(1985) は大昔に見てかなり感動した記憶がある。それでつい手が出て、『銀河鉄道の夜』が入った第2巻だけを買って帰った。
あ、言うまでもなく宮沢賢治は幼い頃からの私の愛読書です。「日本文学で好きなのは宮沢賢治と芥川龍之介だけ」といつも言ってるが、中でも賢治は芥川の100倍好きで、間違いなく日本の作家・詩人の中でいちばん好き。
それで家に帰って読んだら、あまりの良さに大急ぎで店に戻ってもうあと2冊も買って帰り、ついでにタイムリーにもテレビ放映された『銀河鉄道の夜』を見て、さらに作られたことも知らなかったアニメ『グスコーブドリの伝記』(2012)まで見たら、どうしても何か言わずにはいられなくなった次第。

ますむらひろし/宮沢賢治特集

【アニメ評】杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』(1985)
【マンガ評】猫と賢治とますむら・ひろし
★★【マンガ評】ますむら・ひろしと『銀河鉄道の夜』
生まれて初めてUFOを見た話(宮沢賢治番外編)
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【マンガ評】ますむら・ひろし『グスコーブドリの伝記』ほか
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それではまず『銀河鉄道の夜』から。これは原作の登場人物全員を猫に変えたますむらひろしのマンガを原案に、杉井ギサブローが映画化した1985年のアニメ。上で述べたように、私は昔なんの予備知識もなくテレビで見てかなり感激した。見る前は「猫はないだろう、猫は」とか思ってたのに。

そういえば、宮沢賢治は猫嫌いだったという説がある。そのため最初『銀河鉄道の夜』をますむらひろしの絵で映画化することには反対の声が大きかったそうだ。まあ、これほどの作家になると研究者や「信者」も多いし、原作をわずかでも改変されることに抵抗があるのもわかる。
特に賢治には『猫』という非常に短い短編があり、そこに「私は猫は大嫌ひです」という一文があるからだろう。短いから(著作権も切れてるし)全文を引用してしまうと、こういうの。

「猫」 宮沢賢治

(四月の夜、とし老った猫が)
友達のうちのあまり明るくない電燈の向ふにその年老った猫がしづかに顔を出した。
(アンデルゼンの猫を知ってゐますか。
 暗闇で毛を逆立てゝパチパチ火花を出すアンデルゼンの猫を。)
実になめらかによるの気圏の底を猫が滑ってやって来る。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)
猫は停ってすわって前あしでからだをこする。見てゐるとつめたいそして底知れない変なものが猫の毛皮を網になって覆ひ、猫はその網糸を延ばして毛皮一面に張ってゐるのだ。
(毛皮といふものは厭なもんだ。毛皮を考へると私は変に苦笑ひがしたくなる。陰電気のためかも知れない。)
猫は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れて行った。
(どう考へても私は猫は厭ですよ。)

(以下、引用はすべて青空文庫より)

これをして賢治は猫が嫌いという根拠にするのはどう考えてもおかしい。まずこれはエッセイじゃなく散文詩のようなものだし、この的確な観察眼と詩的で豊かなイメージは猫嫌いに浮かぶはずがない。というか、そもそもそんなの書こうとさえ思わないだろう。さらに猫をディスってるのはかっこの中だけで、この部分はどう見てもユーモラスに書かれていて、一種のジョークに違いない。
賢治の童話には猫の出てくるものも多く、それも『注文の多い料理店』みたいな悪役ばかりでなく(それでも猫はかわいいけどね)、明らかに共感をもって書かれていることが多いので、賢治が猫嫌いってことは絶対にないと私は思う。さらに‥‥

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このかわいらしい猫たちは賢治の落書きだというのだが(元画像は『別冊太陽 宮沢賢治』から)、こんな落書き描く人間が猫嫌いのわけないだろ! というか、上の『猫』と合わせると、賢治は重度の猫キチとしか思えないのだが。

結果として映画は猫キャラで作られ、賢治の弟の宮澤清六なんか最初は反対していたのに、できた映画を見たら納得したという。うん、やっぱり猫は正義だ

で、映画もすばらしいと言いたいところだが、今見るといろいろ異議ありなのだ。

詳しくは次章にゆずるが、アニメでいちばん気になったのが猫たちの体色! なんでかアニメのほうではジョバンニは全身が青、カムパネルラは赤いのだが、そんな色の猫はあり得ないのでものすごい違和感がある‥‥というのは、実は最初にアニメを見たときはたいして気にならなかったのだが、ますむらひろしの描くジョバンニとカムパネルラは普通に猫らしい茶系統の色をしているのを見た後だとめちゃくちゃ気になる。

masumura-hiroshi04このジョバンニとカムパルネラが‥‥

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アニメだとこうなる。
まあ、日本のアニメだと日本人も髪の色がピンクだったり緑だったりするからこれが普通なんでしょうか? 「みんな猫で見分けが付かないから区別のため?」とも考えたが、ジョバンニとカムパルネラは出ずっぱりでわからないはずないしね。
あとこれも日本アニメの伝統なのか、目が異常に大きく、口が異常に小さくて不自然。ますむらひろしの猫は目も口も同じぐらいの大きさで自然なのに。だいたい猫はあの口がかわいいのに!
あと、上の比較画像を見れば一目瞭然なのは猫たちの服装。ますむらひろしのジョバンニとカムパルネラは完全に人間と同じ服装をして、帽子、シャツ、ジャケット、ズボン、ネクタイ、靴を身に付けているが、アニメではちゃんちゃんこみたいなのを羽織っているだけで下半身はすっぽんぽん。帽子や靴も消えている。これも絵を簡略化してアニメ作画を楽にするためとしか思えないんだが、主人公をそこまで手を抜くのって本気? おかげで、猫たちがまるで知能の低い動物みたいに見えるんだが。ますむらひろしの猫ってあくまで人間と同じなんだけど。

それにますむらひろしのマンガはすべての登場人物が猫なのに、アニメだとなぜかタイタニックの三人だけが人間になっているのも不満。しかもこの人間がすごい不細工で、猫の絵と合わないんだよなあ。なんでもますむらひろしの描く人間を参考にしたというのだが、ぜんぜん似てないし。ネットじゃ「タッチの姉弟」なんて言われているし。(なぜか『タッチ』で有名なあだち充の描くキャラクターに似ているため) とにかく見ただけでむかつく顔なのが許せない。(あだち充のキャラもむかつくがね。なんであれが人気あるのかわからない。顔見ただけでぶん殴りたくなる顔じゃない?)

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アニメ版とマンガ版のタイタニックの三人。どう見ても子供たちだって猫のほうがかわいいし、家庭教師の青年はここでは放心状態だがキリッとするとすごいハンサム猫。そもそも無表情な「タッチ」のキャラより猫キャラのほうが人間らしいんだよな

というわけで、最初見たときこそ感動したものの、ますむらひろしのマンガを読んだあとだと、逆にアニメのアラばかりが気になってしまう。
良作であることに異論はない。実際、昔見たときは感動したんだから。ただ、ひねくれた言い方をさせてもらえば賢治の原作があまりにも超傑作なため、どんなヘボい映画でも良作ぐらいにはなるよねって感じ。それでますむらひろしの『銀河鉄道の夜』よりは明らかに劣るというのが私の結論。

このキャラクターデザインも不満だが、アニメーション自体もかなり不満。とにかく32年前という大昔のアニメだし、私は日本のアニメをろくに見てないんで何とも言えないんだが、この当時のアニメ技術ってこんなに稚拙だったっけ?
これ、確か当時としてはすごい予算使って、一流のクリエーターを集めて作った鳴り物入りの大作だったはずなんだが。と思って、今調べたら、脚本は別役実だし、音楽は細野晴臣だし、やっぱりすごいじゃん! 私はよく知らないが、確か原画やアニメーターも一流の人を集めたって聞いた。
ただその細野さんの音楽をはじめ、絵だけじゃなく全体にしょぼい感じがしてしまう。まあ古いからしょうがないとは思うが、同時代の1988年の『アキラ』は私でも「すげえええ!」と思えたし、何度見ても変わらず感動するのに。ま、これは『アキラ』がすごすぎたんで、くらべるのは酷ってこともわかってますがね。

masumura-hiroshi06その美しい絵の一例。ジョバンニがお母さんの牛乳を取りに行く牧場。糸杉に囲まれた建物のデザインはほぼ原作通りなんだが、さすがにカラーはきれいだ。ただこの絵、イラストレーターの名前は忘れたが、これとそっくりな構図、そっくりな色調の絵ばかり描いてる人がいるんで(それも確か外国人)、どうもそのパクりに見えちゃうんだよねえ。

賢治の作品の中でも『銀河鉄道の夜』は私にとって特別な小説だが、この小説に限ってはストーリーはわりとどうでもいい。ちょっとお説教臭すぎるし、メッセージがあからさますぎるしね。私がこの小説を偏愛するのは、私が特ににこだわりを持っていて、これが「ドリームスケープ」(夢の風景)を描いた作品の中でも飛び抜けた傑作だからだ。
私も『夢千夜一夜』なんてサイトを作って、自分の見た夢を書き残しているが、賢治と違って文才のない私ではせっかくの夢もあんなに散文的なものになってしまう。「夢見人」としては私はかなりの自信があるし、もし私にあんな文章が書ければ私だって‥‥とは思うんだが、あいにく夢を言葉にするのはむずかしすぎて、見た夢がいいものであればあるほど、そのかけらすらも表現できない自分が悔しくて泣けてくる。詳しくはこの辺にも書いたけど。なのに文章だけであれだけビビッドで幻想的な風景を見せてくれる賢治は本当にすごいと思うわけ。
でもそれは文章だからむずかしいんで、私にせめて画才があって見たものを絵に描ければ‥‥というのもいつも思っていた。ならば日本でも一流の監督やアニメーターを集めて、あれに色を付け、しかもそれが動くとなれば、どんなにめくるめくばかりに美しい映像が‥‥と長年思っていたのだが、はっきり言ってできたものは賢治の原作には遠く及ばないし、モノクロのただの線画であるますむらひろしのマンガにも及ばない‥‥というのは、なかなか考えさせてくれますよね。才能の差かなあ、やっぱり。

いちおう風景とかは原作にはないオリジナルの「幻想風景」を入れて、独自性を出そうという意気込みは感じられるのだが、なんかいまひとつ夢らしくないし安っぽい。そもそも銀河鉄道の窓の外はほとんどいつでも真っ暗なのは、宇宙だからというより単に何もアイディアが浮かばなかったからのような気がする。いちいち書いてはいないけど、夢なら窓の外には次々と変わるこの世のものならぬ風景が展開する‥‥と私は脳内補完して読んでたので。それが真っ暗な中に光るピラミッド(三角標のつもりらしい)が飛んでくだけなんて。

というわけで以前の好印象はどこへやら‥‥というか、それだけますむらひろしのマンガが良かったということで、それは後の章に書く。

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