★★★【マンガ評】ますむら・ひろしと『銀河鉄道の夜』

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「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでもみんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたようにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。

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そして『銀河鉄道の夜』である。だいたい言いたいことは前の章で言ってしまったけど、賢治の童話の中では五指に入る好きな作品だし、ますむらひろしの作品ではもちろんナンバーワン。だってジョバンニとカムパネルラが死ぬほどかわいいしいじらしいんだもの。

ところで、この本には2バージョンの『銀河鉄道の夜』が収められている。1983年に発表されたオリジナルと、1985年の「ブルカニロ博士篇」だ。
実は『銀河鉄道の夜』は出版されないまま賢治が亡くなり、草稿のまま残されたのでいくつもの異なる版がある。一般的に決定稿とされるのは第四稿で、ますむらひろしの1983年版がこれ、あとから描かれた1985年版の漫画は古い方の第三稿を元にしている。もちろん、アニメ版も決定稿のほうだ。

この二種類の草稿は、銀河鉄道に乗ってる夢部分は同じだが、最初と最後の現実の部分の話がまったく違っている。ますむらひろしがなぜ同じ話をわずか二年後にわざわざ二度もマンガ化する気になったのか詳しくは知らないが、1995年の扶桑社版のあとがき(結局、紙の本だけでは物足りず、Kindle版も買ってしまった)を読むと、よほど「ブルカニロ博士篇」を描きたかったらしい。長さもこちらのほうがかなり長い。しかも共通している夢部分もすべて新しく書き直しているのだ。
私はもちろん全集を持ってるから両方読んだことがある。でも当時は特になんとも思わなかったし、普段目にするのは決定稿のほうばかりだから、普通にそっちが『銀河鉄道の夜』だと思っていた。しかし今回、ますむらひろしの両作品を読んで、さらに原作を読み直してすごく衝撃を受けた。
第三稿のほうがぜんぜんいいじゃん、これ! というわけで、今日は主としてこの「額縁」部分について考えてみようと思う。

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第四版(決定稿)の明るく前向きなジョバンニ。ちなみにこのお姉さんがトマトでこしらえてくれた「何か」は子供の頃、おいしそうでうらやましくてしょうがなかった。私はトマトは大嫌いだったんだけども。

銀河鉄道に乗り込むまでのプロローグは第四稿のほうが長い。学校で先生が銀河について教える授業の様子から始まって、星祭りの晩だというのに放課後は印刷所で活字拾いのアルバイトをしたり、病気の母親の世話をしたりするジョバンニの日常が描かれている。
登場はしないが、ジョバンニには働いている姉がいることもわかる。母親との会話では漁に出たきり帰らない父親のことや、カムパルネラ父子との関係についても説明される。
一方第三稿にはそうした日常生活の細かな描写がなく、ジョバンニが配達されなかったお母さんの牛乳を取りに行く場面から始まっている。母との会話場面がないので、状況説明はジョバンニの独白だけでなされ、姉も存在しないらしい。
しかしどちらの版でも、牛乳を取りに行くついでに川へお祭りを見に行こうとしたジョバンニが、途中でいじめっ子のザネリたちにからかわれ、自分の境遇を考えて落ち込んで、川へ行かずに天気輪の丘の上で寝転んで星を見ているうちに眠りに落ちて夢を見るという流れはいっしょだ。

第三稿と第四稿の大きな違いはエンディングである。第三稿では突然ブルカニロ博士というのが現れて、これまでジョバンニが見ていた夢は「遠くから私の考えを人に伝える実験」(テレパシーか?)の成果だったらしいことがわかる。これは確かに唐突な幕切れで、最初読んだときも「なんだ、これ?」と思った。
一方第四稿ではジョバンニは子供が川に落ちたという話を聞き、川へ行ってカムパネルラの身に何があったかを知り、さらにカムパネルラのお父さんと話をする。第三稿ではカムパネルラの死はうっすらとほのめかされるだけだったが、こちらではカムパネルラが川に落ちたザネリを助けようとして自分は溺れて死んだことが明確にされている。それにしても「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と他人事のように言うカムパネルラのお父さんも変な人だとは思ったけどね。

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しかし、このあとカムパネルラのお父さんはジョバンニのお父さんからもうすぐ帰るという連絡があったことを伝え、結果としてジョバンニにとってはハッピーエンドになっている。(それにしても自分の息子が死んだ直後なのに、平然と世間話をするお父さん‥‥)
ジョバンニの不幸のすべて、まだ幼いジョバンニが早朝は新聞配達をし、学校から帰ると印刷工場で活字拾いのアルバイトをして働いているのも、彼が学校で孤独でいじめられているのも、お母さんが病気で寝たきりで、お父さんは船で漁に出て帰ってこないからだから。

しかし、第四稿では単に漁に出ているだけだったらしいジョバンニのお父さんは、第三稿だとどうやら密漁で捕まって「遠くのさびしい海峡の町の監獄に入っている」らしいし、当然しばらくは帰るあてもない。どう考えてもこちらのほうが絶望感がひどい
第四稿のジョバンニは父親はいなくても、親友のカムパネルラやお母さんやお姉さんに優しく見守られている感じなのに、第三稿のジョバンニは完全にひとりぼっちだ。お母さんのことを気遣っているのはわかるが、そのお母さんも物語には一度も登場しないし、どっちかというとジョバンニのお荷物な感じだし。

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第三稿(初期稿)の悩めるジョバンニ。このあとの引用はすべて第三稿から。

とどめに、牛乳屋すらも第四稿では親切で、ジョバンニはちゃんと牛乳を手に入れるのに、第三稿では見るからに意地悪そうに描かれ、牛乳ももらえない。下の引用で「お金がほしい」と言っているのは、お金があれば牛乳の代わりにコンデンスミルクを買ってお母さんに飲ませてあげられるからである。でも彼にはそのお金もない。
どうやら働いて一家の生計を支えているらしい(さらに料理などの家事もしてくれているらしい)お姉さんのいない第三稿では、せいぜい10才かそこらと思えるジョバンニがひとりで働いて生活費を稼ぎ、病気のお母さんの介護をしている。まさに究極の困窮家庭である。
第四稿のジョバンニの悩みは、せいぜいがバイトでカムパルネラたちと遊ぶ時間がないことと、お父さんのことでザネリらにからかわれることぐらいで、かわいそうだけどいかにも子供らしい悩みだが、こっちのジョバンニの小さな肩には生活苦と両親の心配が重くのしかかり、しかも彼には誰ひとり頼れる人はいない。
どっちかというとジョバンニの方が自ら川に入って死にたくなってもおかしくないぐらいだ。(そして溺れてカムパルネラと同じ汽車に乗り合わせるというのも考えたが、これだとジョバンニは地獄行きでまずいな)
つまり全体に第三稿のほうが、決定稿よりはるかにトーンが暗く救いがないのだ。

というわけで、話がすっきりしてわかりやすいのも、(少なくとも現実部分は)リアルで現実的なのも、救いがあるのも第四稿のほうなので、こちらが最終稿となったのはわかる。だけど、私はますむら氏に同感で第三稿のほうがずっといいと思う

第四稿ではカムパネルラのお父さんはジョバンニのお父さんと幼馴染みの友達同士で、当然ジョバンニとカムパネルラも小さい頃からいっしょに遊んでいた幼馴染みという設定である。もちろん今も友達同士で、カムパルネラは授業で答に窮したジョバンニをかばうような優しさを見せる。だからジョバンニがカムパネルラの死出の旅への道連れになったのも自然な流れだ。

ところが、第三稿にはこの設定がない。そこで当然ながら貧乏なジョバンニの家と金持ちらしいカムパネルラとの間にはなんの接点もない。そして貧乏で生活のために働かなければならないため、介護疲れと仕事の疲れで体がつらくて勉強も遊びも以前のようにはできず、いじめられっ子で、いつでもひとりぼっちのジョバンニは、金持ちの子で、「ステッドラーの色鉛筆でも何でも」買えて、勉強もいちばんだし、級長だし、絵も上手だし、決して誰の悪口も言わず、みんなに好かれているカムパネルラを心からうらやましく思い、「ぼくはどうして、カムパネルラのように生まれなかったろう」「ぼくがカムパネルラと友だちだったら、どんなにいいだろう」と考えるのである。

masumura-hiroshi17貧しいしいじめられっ子なのはいっしょでも、それでもカムパネルラというかばってくれる友達のいる第四稿のジョバンニとくらべると、こちらはいかにも不憫で切ないし悲しいし、ちょっとだけいじましい。でもこのジョバンニのほうが、なんだかいかにも絵に描いたようないい子の第四稿のジョバンニよりもはるかに人間らしく感じられるのだ。
そういえば、ますむらの絵も第三稿と第四稿ではかなり違う。上の引用を見ていただけばわかるように、第四稿のジョバンニはいかにも幼くあどけなくかわいらしい顔をしているのに、第三稿のジョバンニはずっと大人びて絵もシリアスな感じになっている。

私がついジョバンニに感情移入してしまうのは、ちょっと自分の子供の頃を思い出してしんみりするせいもある。うちの父は刑務所に入っていたわけではないが、まあ当時の感覚で言うと島流しも同然で(オーストラリアの海外駐在員で盆暮れしか日本に帰らなかった)、遠くの外国にいて帰って来ないというのはジョバンニと同じだったし、私はほとんど父なし子のように育ったからだ。
それにうちはけっこう貧乏だったので、裕福な級友――なんでもおもちゃや本を買ってもらえて、ピアノとかの習い事をやらせてもらえて、誕生パーティーを開いてもらえるようなうちの子――に対する羨望の気持ちもあった。勉強で人に負けたことはなかったからそういう劣等感はなかったけどね。

そうそうそれを言えば、それでもジョバンニは「巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの」を外国から持ち帰るお父さんを内心誇りに思っていて、それらがまだ学校の標本室にあることを心のよりどころにしている。
うちの父も商社マンと言ってもわりと山師的なところがあって、オーストラリアの山奥で鉱脈を探したり、原住民の部落に泊まったりということをしていただけあって、持って帰るおみやげも本物のワニの剥製だの、本物のアボリジニのブーメランだの、ちょっと変わったものというところがよく似ているし、私もジョバンニ同様、それを学校に持っていって、先生やクラスのみんなに見せたりしていた。(まだ海外へ行く人が少なかった時代で、「外国の珍しいもの」というだけでも価値があったのだ)
そのブーメランは学校の先生が実験と称して校庭で飛ばして、ものの見事に真っ二つに折っちゃったけどね(笑)。なにしろおもちゃじゃなく、本当に獲物を殺すための道具だから、とてつもなくでっかく重いしろもので、とてもじゃないが素人が飛ばしても戻ってくるようなものじゃなかったのだ。ワニもすぐに手足がもげたりカビが生えたりして捨てられてしまったはず。(今ならワシントン条約に引っかかるんではないか)

『銀河鉄道の夜』のいちばん有名なセリフ「ジョバンニ、お父さんがラッコの上着を持ってくるよ」(ザネリたちがジョバンニをからかうセリフ)は、私だったらさしずめ「お父さんがコアラの上着を持ってくるよ」だな。
せっかくシリアスに書いてたのに、あまりに語呂が合ってるし、ありそうな話なんで自分で書いて自分で笑ってしまった。ああ、ちなみにコアラはあの当時から保護動物だったんで、コアラの上着は無理だけど、カンガルーの上着は大ありです。今は知らないが、コアラやカンガルーのぬいぐるみも本物のカンガルーの毛皮が張ってあった。

つい追憶に浸ってしまったが、こうしたジョバンニとカムパネルラの関係性の違いを見てくると、夢の部分の意味合いも違ってくる。第四稿はごくふつうに、他人のために我が身を犠牲にしたカムパネルラが天国へ行くのを親友のジョバンニが見届けるが、ジョバンニはまだ生きているので最後までいっしょには行けなかった、という話に見えるが、第三稿はそれよりずっと考えさせられる

つまりこれだとジョバンニがカムパネルラといっしょの列車に乗っている理由がないのである。
そこでこれはカムパネルラと友達になりたいというジョバンニの願望が生んだ夢と考えるほうが自然だ。

カムパネルラの殉死は実際にあったこととしても(それすら第三稿ではほのめかされるだけで、実際にあったことかどうかの確証はない。それに対して第四稿でははっきりと記されている)、銀河鉄道のくだりはそれに触発されたジョバンニの妄想、丘の上で寝転んで、天の川と遠くを走る夜汽車の光を見ながら寝込んでしまったジョバンニの夢なんでは?と思えるのだ。(もちろん第四稿も夢と考えるのが普通だが、カンパネルラの犠牲が強調されているせいで、宗教的な物語と読める)

もちろんブルカニロ博士の影響もあるが、この「実験」では彼はむしろ観察者で、彼の役割はジョバンニの頭の中を覗き、アドバイスを与えるだけだ。つまりこの物語に登場するカムパネルラはジョバンニの心の投影、ジョバンニが作り上げたものというわけだ。
これはあくまで私の解釈にすぎないが、こう解釈するとなんとも切なくやるせない。だからこそこっちのほうが文学的だと思うのだが。だいたいこう考えたほうが私が嫌いだと言った第四稿のお説教臭さが減るし、そもそも宗教臭さが減るだけでも私はこっちのほうがいいと思う。
一方、ジョバンニのキャラクターはずっと陰影が増して良くなる。第四稿のジョバンニは単に親友と銀河鉄道に乗ってはしゃいでいるだけの子供だが、

ぼくはもう、遠くへ行ってしまいたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまいたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまの家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、 どんなにいいだろう。カムパネルラは決してぼくを怒っていないのだ。そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだろう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんとうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。

とまで言い切ったジョバンニが、あこがれのカムパネルラといっしょに旅をできたことに対するはかりしれない喜び、かおる(タイタニックの女の子)にカムパネルラを取られてしまうかもしれないと思ったときの身を切るような嫉妬と苦悩、そしてとうとう「どこまでもどこまでも一諸に行こう」と誓ったカムパネルラと別れなくてはならなかったときの痛みと苦しみは、そのカムパネルラが幻想だろうとなんだろうとずっと激しいものになる。というか、上で引用したようなセリフがあるだけでもこっちの方がいいわ。(当然第四稿にはこれらのセリフはないし、後述するブルカニロ博士のセリフもない)

masumura-hiroshi18私が第三稿のほうがいいと思う理由その2は、そのブルカニロ博士の存在だ。最後に出てきていきなり名乗るから唐突な登場のように見えるが、実は彼は夢の最初から登場している。夢が始まる前にジョバンニが丘で天の川を見上げながら聞く「セロのような声」はブルカニロ博士の声だし、その前の原稿が5枚欠落した直後に、ジョバンニが「博士の言ったように」と言っているので、おそらくその欠落部分でジョバンニは博士に会っているはず。
それでこのブルカニロ博士のセリフが実にいいのだ。

ジョバンニは旅の間中、「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言いながら「本当の幸福とはなんだろう?」ということで悩んでいるのだが、物語の最後にブルカニロ博士はその答を与えてくれる。次の引用は私がこの物語全体でいちばん好きな部分。

「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてそうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでもみんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたようにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。

masumura-hiroshi19どういうわけか、昔読んだときはこの博士は実は人に身をやつした神なのだと思っていた。ジョバンニは「たった一人のほんとうの神さま」を信じていて、この人がすべての疑問に答えてくれるようだったから。でも今読み返すと、ブルカニロ博士は明らかに信仰より科学の人であることがわかる。彼の説く「ほんとうの神さま」は次のようなものだ。

おまえは化学をならったろう。 水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだ れだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだと言うだろう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考を分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学と同じようになる。

おそらくスティーヴン・ホーキングはこれに同意するだろう。というか、彼がこれとそっくりな発言をしたのを聞いたような気がする。リチャード・ドーキンスみたいなガリガリの無神論者はこれでも反発するだろうけどね。私はそういう実証可能な神なら信じてもいいかな。
タイタニックの姉弟との宗教論争を見ても、ジョバンニは天国よりも地上に「もっといいとこをこさえなけぁいけない」と考えているのは明らかで、だからこそ彼らの神(キリスト教の神)を「ほんとうの神さまじゃない」とまで言い切るのだが、ブルカニロ博士はそういうジョバンニを後押しするように「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない。」と言ってジョバンニを送り出すのだ。

お父さんが帰ってきて一件落着の第四稿の結末より、自分で運命を切り開いていくことを決意するこっちのほうがどんなにいいだろう。鬱で泣き虫の子供だったジョバンニもすっかりタフに生まれ変わったし。
と、つい長々書いてしまったのも実は資料を探してる最中に、第四稿がいかに三稿より優れているかを論じた論文を見てむかついたからなんだが(笑)。

ますむらひろしが何を思って再度第三稿をマンガ化したのかはわからない。でもこちらの方を気に入っていなければそもそもそんなことをする必要もないので、やはりどうしてもこれを読んでほしかったんだろう。
そしてマンガとしてはもう明らかに「ブルカニロ博士篇」のほうが優れている。わずか二年の差なのに絵もこっちのほうがずっと洗練されていて(もちろん猫たちもかわいくて)いいし、コマ割りやネームの入れ方もずっといい。いや、もしかして、マンガがあまりに優れているから、今になって第三稿のほうがいいと思えてきたのかも、というぐらいいい。
だけど世間は映画になった第四稿のほうを記憶するし、そっちを正典として支持するんだろうなと思うと悲しい。その意味でもますむらひろしの「ブルカニロ博士篇」はひとりでも多くの人に読んでもらいたい傑作である。

あとついでだが、ブルカニロ博士のセリフはすごくSFっぽくて、そこもこれが好きな理由。「ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない」ってかっこよすぎ!  プレシオスの鎖ってなんだか知らないけど(笑)。
ちょうど映画ファンが「タンホイザー・ゲート」ってなんだか知らないけど、『ブレードランナー』のロイ・バッティーの最後のセリフに感動したような感じ。「俺はおまえたち人間には信じられないようなものを見てきた。オリオン座の肩口で火と燃える戦闘艦、タンホイザー・ゲートの近くの闇の中でまばゆく輝くCビーム。それらすべての瞬間は‥‥時とともに‥‥消えていく。ちょうど‥‥雨の中の‥‥涙のように」 そういや『ブレードランナー』のこのセリフ、SF用語を東北に置き換えるだけで賢治っぽくなるよね。

今回は『銀河鉄道の夜』の枠組み部分だけで、かんじんの夢の部分について触れる暇がなかった。でも夢の最もすばらしい部分を凝縮したような物語と言うだけで十分だよね。とにかく私はますむらひろしの『銀河鉄道』に出会えて良かった。ちょっと遅すぎたけど。

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