★【マンガ評】ますむら・ひろし『風の又三郎』ほか

masumura-hiroshi32

これってまさに子供の情景なんだよね。子供ってとにかく何もわからないくせに想像力だけは旺盛だから、なんでもやたら怖がるんだけど、そのくせ好奇心旺盛で意外と順応力はある。そういう子供らしい子供を生き生きと描いている。(風の又三郎)


ちょっとどんなスプラッタもスラッシャーもゴアもジャーロも切り株映画もかなわないグラン・ギニョール。って、たぶん宮沢賢治をこういうものに例えたのは私が初めてだからね!(洞熊学校を卒業した三人)

ますむらひろし/宮沢賢治特集

【アニメ評】杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』(1985)
【マンガ評】猫と賢治とますむら・ひろし
★★【マンガ評】ますむら・ひろしと『銀河鉄道の夜』
生まれて初めてUFOを見た話(宮沢賢治番外編)
★【アニメ評】杉井ギサブロー 『グスコーブドリの伝記』(2012)
【マンガ評】ますむら・ひろし『グスコーブドリの伝記』ほか
★【マンガ評】ますむら・ひろし『風の又三郎』ほか

『風の又三郎』

子供の頃読んだときは何がおもしろいんだかさっぱりわからなかった。特に事件らしい事件も起こらないし、ただ子供らが遊んでるだけで。でもこれは大人だからこそわかる。これってまさに子供の情景なんだよね。子供ってとにかく何もわからないくせに想像力だけは旺盛だから、なんでもやたら怖がるんだけど、そのくせ好奇心旺盛で意外と順応力はある。そういう子供らしい子供を生き生きと描いている。

あらすじ

岩手の山奥の小学校に北海道から来たという転校生が入ってくる。その転校生、高田三郎は、洋服を着て靴をはき、標準語をしゃべって、髪が赤い(染めてるという意味じゃないよ。髪の色が薄い人を昔はよく髪が赤いと言った)というだけで、外国人と決めつけられてしまう(笑)。(村の子たちはみんな着物に草履ばき)
子供たちは興味津々で、まるでめずらしい動物を見るように三郎をじっと観察しているのだが、年の近い一郎嘉助はいっしょに遊んでいるうちにだんだん打ち解けてくる。
嘉助は三郎が何かすると風が吹くという理由で三郎が「風の又三郎」(風の精霊みたいなもの)ではないかと疑っているのだが、霧の中で道に迷って眠ってしまったときに、ガラスのマントを着てガラスの靴を履いて空を飛ぶ又三郎を見て、やっぱり風の又三郎に違いないと確信する。
三郎はある日突然いなくなり、先生から父親の仕事の都合であいさつをする間もなく引っ越したと聞かされる。嘉助はやはり彼は風の又三郎だったのだと思う。

実はこの短編には『銀河鉄道の夜』のように原型がある。ただ、その『風野又三郎』は設定がまるで違って、又三郎は人間ではなく、完全に擬人化された風そのものだし、彼が世界中を飛び回って見てきた話が中心になっている。

それはそれとして、こちらの『風の又三郎』の三郎ははたして人間のふりをした風の精なのか、それともただの転校生なのかは、意図的に明らかにされていない。嘉助は三郎=又三郎説を最初から唱えているし、理性的な優等生の一郎は懐疑派だ。そして物語もちょうどその中間で微妙に揺れているのがいい。
つまり子供らが三郎に異質なものを感じて最初は怯えるのは、単に子供だし、ものを知らない田舎者だからで、自分たちと違うタイプのよそ者を見たこともないため、勝手に相手を魔物と思い込んでしまう。
しかしその反面、不思議で頭も良く勇気のある三郎は、田舎の子供たちにとっては抵抗しがたい魅力も持っている。だから子供たちは三郎といっしょに遊びながら、三郎のいろいろな面を発見して驚いたり感心したりするのだが、それでもどこか本能的に異質なものを感じ取っているため、最後は三郎から身を引き、はやし立てる。その後三郎がいなくなるのは単なる偶然とも取れるし、正体を見破られたからとも取れる。

まあこれ言っちゃうとつまらないけど、私は三郎=人間説をとりますけどね。

三郎が異質に見えるのは、狭い村社会に慣れた村の子には都会もん(三郎は北海道から来たと紹介されるが、北海道人とは限らない。鉱山技師のお父さんについて日本中まわってる転勤族っぽい)が珍しいからにすぎないし、あんなに仲良く遊んでたのに最後彼を排除しようとするのは、まさに田舎者の偏狭さの現れという感じで。
三郎が思ったよりすんなりと仲間に溶け込むのは、転校続きでこういうシチュエーションに慣れてるからだし、そのわりに冷淡な感じなのは、仲良くなってもまたすぐに別れるのがわかってるから意識的に身を引いてると思うと、何もかもぴったり当てはまる。

という口調でおわかりのように、私はやっぱり田舎が好きじゃないし、もし子供の頃に田舎の学校に転校したら、きっとこの三郎みたいになったと思う。
しかしその反面、こういう田舎の子供の暮らしにはすごいあこがれる。だいたい一郎の家は競走馬の牧場というだけでも私には夢のようだ。その本物の競走馬で競馬をして遊ぶってのはもう天国ですわ。(もちろんやっちゃならないことで、おかげで嘉助は死にかけるが)
このとき競馬をしようと言い出すのは三郎なんだが、最初は馬をこわがってる様子なところもいかにも都会の子だし、彼は又三郎じゃないという証拠。
しかしもう少しで馬まで死なせるところだったのに、こっぴどく叱られるどころか、無事でよかったと言って団子食わせてくれる一郎のおじいさんたら本当にいい人。

それ以外にも野生のブドウや栗を取りに行ったり、木に登ったり川で泳いだり、魚をとったり、田舎の子にとってはあたりまえのことなんだろうが、子供時代にこういう所でこういう遊びができたらどんなに良かったかと羨望しか感じない。
私は昔の子だから、東京と言っても今の子よりずっとワイルドな外遊びばかりして、野原に秘密基地を作ったり、虫やザリガニとったりして遊んだんですけどね。それでも田舎には負けるよね。

それに嘉助が又三郎を信じる気持ちもよくわかる。都会でも子供はいろんな都市伝説を本気で信じているものだったから。私も近所のどぶ川にワニがいるという噂を信じて、何時間もずっと川を見つめていたりしたし。

なんかマンガの話が出ないが、もちろん人間は全部猫に置き換えられている。三郎はカムパルネラを少し年上にした感じ。年上で級長の一郎はハンサムな猫だし、嘉助は柄はグスコーブドリと同じだが、ヒデヨシ・タイプのぽっちゃり猫。ますむらひろしは(猫の)子供を描くのが本当にうまいので、この子供たちも全員かわいい。

masumura-hiroshi34そういえば、次に取り上げるつもりのドリヤス工場(水木しげるのパロディー漫画を描いてるマンガ家)も『定番すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む』の中で『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』を描いているんだが、ますむらひろしと水木絵とでは世界が違いすぎて笑う、と同時にやっぱり水木絵のほうがこの作品には合ってる気もしなくはない。なんだかんだでますむらひろしの絵は洗練されてるからね。というわけで両者の比較。(『定番』のほうはなにしろ極端なダイジェスト版なのでぴったり合う場面はなかったんだが)

masumura-hiroshi35

ドリヤス工場版『風の又三郎』

そういえば、学校の授業のシーンがかなりていねいに書かれているのだが、ひとつの教室に1年生から6年生までがいて、しかも各学年にそれぞれ違うことを教える先生って、同業者から見ると超人的(笑)。これじゃ普通の3倍ぐらい給料もらわないと割が合わない。

『雪渡り』

masumura-hiroshi33賢治のデビュー作で、いかにも童話らしい、かわいらしくて心温まる作品。ちなみに作品が売れて原稿料をもらったのはこれだけだとWikipediaに書いてあったけど本当かよ。ゴッホみたいに生前はまったく認められなかったんだよね。

あらすじ

雪が凍って一面の銀世界になった日、四郎とかん子の幼い兄妹は森でキツネの紺三郎と出会い、幻燈会【注】に招待される。幻燈で見せられるのは「お酒のむべからず」「わなを軽蔑すべからず」「火を軽蔑すべからず」という子ギツネたちへの教訓を絵にしたもので、それを守らなかった愚かな人間やキツネの失敗を描いている。
休み時間に紺三郎が二人に団子を勧める。二人は今しがたキツネに化かされた男が馬糞を団子だと思って食べる幻燈を見たばかりなので(実際はキツネは関係なく、男が酔っ払って勝手に食べただけ)ためらうが、四郎は「僕は紺三郎さんが僕らを欺すなんて思わないよ」と言って団子を食べる。キツネたちは感動して従来のキツネに対する悪い評判をなくすためにがんばろうと誓う。

【注】幻燈会 スライドショーみたいなもの。と書いたが、今の人にはスライドショーもわからないか。ええとですね、インターネット以前には大勢の人に写真を見てもらうチャンスというのは写真展を開くか、スライドショーを開くしかなかったんですよ。要するにスクリーンに写真を次々投影するだけ。今でもプレゼントかでは使われてるけど。
幻燈(幻灯)というのも原理は同じだけど、こっちは要するに動かない映画。紙芝居が大がかりになったようなもの。私は一度だけ学校の校庭で上映された幻燈会を見たことがある。当時としても滅びる寸前のもので、貴重なものを見たと変に感動した。

これは人間と動物の交流の話なので、人間は人間、キツネとして描かれている。そしてますむらひろしは猫もかわいいが、キツネも本当にかわいい! 特にキツネの学校の生徒たちが紺三郎の話に感激して、めいめい自分の宝物を持ってきて四郎とかん子にあげようとするところなんか。
一方、幼い弟と妹が夜中にキツネに会いに森の中へ出ていくというのに、引き止めもせず、餅をみやげに持たせてやるし、帰りは迎えに来てくれる兄さんたちもやさしすぎてかわいい。

賢治の魅力はストーリーだけでなく、ユニークな擬音語や作中に挿入される歌にもあるが、それもこの作品ですでに全開。「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」という歌の語呂の良さもさることながら、「キック、キック、トントン。キック、キック、トントン」という擬音(キツネが足踏みで拍子を取ったり踊ったりする音)が殺人的にかわいい。
この手の擬音語は賢治の作品には満ちあふれているが、文で読むとすてきなのに、声に出して読まれるとがっかりということが多い。(今回、YouTubeでいくつかアニメ化された賢治作品を見たのでよけいそう思う )
その点、マンガにはもともと書き文字の擬音語が付きものなので、まったく違和感なく読めるばかりか、文字だけで読んでるときより、画面から音が聞こえてくるような気がする。その意味マンガというのは最も賢治に適した表現形式なんじゃないかと思えてきた。

そして風景の美しさ。畑の上まで一面の雪が凍って見渡す限り大理石の床のようになった冬景色の美しさは見たことのない私の目にもありありと見えるほどリアルで美しいし、もちろんマンガも美しい。

『十力の金剛石』

これは読んでるはずなんだが、まったく記憶になかった童話。

あらすじ

幼い王子と同い年の大臣の子が森の中に宝石を探しに行く。そして二人は霧の中で不思議な世界に迷い込む。そこでは二人の帽子に付いていた蜂雀が歌い、宝石の雨が降り、草花はすべて宝石でできている。しかし森は「十力の金剛石」を待ち望んでいた。十力の金剛石とは実は雨や露のことで、それによって森は命を取り戻す。王子はこの教訓を学び、来るときは剣で切り捨てたイバラをかがんで静かにはずす。

ストーリーより詩が中心の美しい小品だが、これは子供にはわからないから、それで記憶になかったんだろう。それで文章で読んでも確かに美しいんだが、やはりこういう情景までは想像がむずかしく、その意味マンガを読んで初めて良さを知った作品である。これは本当ならカラーで読みたかったなあ。

『洞熊学校を卒業した三人』

賢治選集の最後を飾るのは『洞熊学校を卒業した三人』なんだが、実はこれ私にとってのトラウマ的作品なんだよね。

あらすじ

赤い手長の蜘蛛と、銀いろのなめくじと、顔を洗ったことのない狸が、洞熊学校を卒業する。三人は上辺は仲が良さそうだが、実際はお互いを見下し、自分がいちばん偉くなってやると心に決めていた。
蜘蛛はどんどん巣を広げ、結婚して子供も作り、「虫けら会の副会長」にまで出世する。しかし巣が大きくなりすぎて、かかった獲物を食べきれず、腐った食物の菌が蜘蛛の一家にもうつって、全員が腐って溶けて流れてしまう。
なめくじは水を求めてやってきたかたつむりやとかげを食べてどんどん大きくなったが、同じく水をくれと言ってきた雨蛙と相撲をして塩をまかれ、溶けてしまう。
寺の住職である狸は山猫大明神の名を借りて、やって来た動物を食い殺していたが、ある日籾を持ってやってきた狼を同じように食べてしまう。しかし腹の中で籾が芽を出し、最後は腹が割けて死んでしまう。
そしてその間、眼の碧い蜂の群は四季それぞれの仕事にひたすら励んでいる。

要するに蜂の群以外は全員が悪人で、それ相応の報いを受けて死ぬという童話としてはかなり後味が悪い話。
洞熊先生はべつに悪いことはしていないが、そもそもこの三人に弱肉強食の競争原理を植え付けたのは彼だし、最後は「ああ三人とも賢いいいこどもらだったのにじつに残念なことをした」と言ってあくびをしているぐらいだから、たいして教え子のことも心配していない。だいたい、三人が卒業したあとは「こんどはどぶ鼠をつかまえて学校に入れようと毎日追いかけておりました」というぐらいで、生徒は拉致してくるらしい(笑)。

蜘蛛が他の虫を捕らえて食べるのはあたりまえのことだが、その餌食は「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」と哀れな声で泣くあぶの子どもだったり、死ぬ前に辞世の歌をうたわせてくれという「めくらのかげろう」だったり、なんか哀れな生きものを情け容赦なく食い殺してしまう。
蜘蛛の子供たちは200匹のうち198匹まで死んでしまうのだが、「けれども子供らは、どれもあんまりお互いに似ていましたので、親ぐもはすぐ忘れてしまいました」。まあ蜘蛛じゃね、しょうがないけどね。わりと身も蓋もないね(笑)。
それで巣にかかった獲物が食べきれずに腐り「そして蜘蛛の夫婦と子供にそれがうつりました。そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日とうとう雨に流れてしまいました」というグロい最期を遂げる。でもこの三人の中では本能に従っているだけの蜘蛛はいちばんまし。

なめくじは自分の家の「ふきのつゆ」を飲みに来る動物に、最初は親切に水を飲ませてやるが、そのあと弱った相手に無理やり相撲を取らせ、殺して食べてしまう。それだけならまだしも、相手を殺すときのしつこさと容赦のなさが本当にいやらしくて怖い。

「さあ、すもうをとりましょう。ハッハハ。」となめくじがもう立ちあがりました。かたつむりも仕方なく、
「私はどうも弱いのですから強く投げないで下さい。」と云ひながら立ちあがりました。
「よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。
「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ」
「もうつかれてだめです。」
「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。
「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」
「もうだめです。」
「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。よっしょ、そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。
「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」
「もうだめ。」
「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。
「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。」
「もう死にます。さよなら。」
「まあもう一ぺんやりましょうよ。ハッハハ。さあ。お立ちなさい。起こしてあげましょう。よっしょ。そら。ヘッヘッヘ。」かたつむりは死んでしまいました。そこで銀色のなめくじはかたつむりを殻ごとみしみし喰べてしまいました。

これはもうまぎれもないサイコですわ。これは子どもじゃなくてもビビるわ。「ハッハハ」という笑い声が無性に気持ち悪くて憎たらしいし。
このやりとりは次のトカゲに対しても繰り返される。ただしトカゲは相撲じゃなくて、蛇に噛まれた毒を舐めとってやるとだまして、生きたまま「ハッハハ」と言いながら消化してしまう

「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。ハッハハ。」となめくじが云いました。
それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。安心したわけはそのとき丁度心臓がとけたのです。

この悪行にくらべると同じように相撲を取ったカエルに塩をまかれて足からだんだん溶けて死ぬなめくじの末期はまだ甘すぎるような気がする。

なめくじが泣きそうになって、
「蛙さん。さよ……。」と云ったときもう舌がとけました。雨蛙はひどく笑いながら
「さよならと言いたかったのでしょう。本当にさよならさよなら。わたしもうちへ帰ってからたくさん泣いてあげますから。」

と言いながら一目散に帰って行ったカエルもかなり性悪だが。

タヌキは寺を持っている(ぶんぶく茶釜からの連想か?)のだが、なぜかご本尊は仏ではなく(勝手にこしらえたらしい)山猫である。それで念仏の代わりの念猫(ねんねこ)は「なんまんだぶ」の代わりに「なまねこ、なまねこ」と唱える、というのは駄洒落みたいでなんかかわいくて笑う。
しかしタヌキは寺を訪れる動物を「なまねこ、なまねこ、みんな山猫さまのおぼしめしどほりになるのぢゃ。なまねこ。なまねこ」と唱えながら、生きたままかじって食べてしまう。それでも相手はタヌキのおなかに収まるまで死なず、ありがたがって涙を流しながら「なまねこ、なまねこ」を唱えているのが怖い。それでタヌキの腹に入って初めて「お前の腹の中はまっくろだ」と気付くのだがもう遅い。

なんかこれはもう信者を食い物にするあらゆる宗教に対する、直球すぎる皮肉という感じですね。宗教嫌いの私としては大いに共感。賢治自身は熱心な仏教徒だったようだけど、私は仏教に帰依するぐらいなら「なまねこ教」のほうがまだましだけど。
それを言えば、蜘蛛は「虫けら会の会長」になる野心を持っているようだから、悪徳政治家か。それならなめくじは「ふきのつゆ」という資本を武器に人々を食い物にする資本家そのままだ。というふうにちゃんと人間世界の暗喩になっているのがおもしろい。

そこで最後の犠牲者である狼に対しては、これまで多くの命を奪ったことを非難しながら、

「それはな。じっとしていさしゃれ。な。わしはお前のきばをぬくじゃ。このきばでいかほどものの命をとったか。恐ろしいことじゃ。な。お前の目をつぶすじゃ。な。この目で何ほどのものをにらみ殺したか、恐ろしいことじゃ。それから。なまねこ、なまねこ、なまねこ。お前のみみを一寸かじるじゃ。これは罰じゃ。なまねこ。なまねこ。こらえなされ。お前のあたまをかじるじゃ。むにゃ、むにゃ。なまねこ。この世の中は堪忍が大事じゃ。なま……。むにゃむにゃ。お前のあしをたべるじゃ。なかなかうまい。なまねこ。むにゃ。むにゃ。おまへのせなかを食ふじゃ。ここもうまい。むにゃむにゃむにゃ。」

と、またもこの狂気じみてしつこい繰り返しがサイコっぽいし、まず歯を抜き目をつぶしという残酷な展開。想像しただけでスプラッタどころじゃない阿鼻叫喚の凄惨な殺しだし、最後はもちろん腹の中で育った籾が稲になり腹がはじけて死んでしまう。
ちょっとどんなスプラッタもスラッシャーもゴアもジャーロも切り株映画もかなわないグラン・ギニョール。って、たぶん宮沢賢治を
こういうものに例えたのは私が初めてだからね! って、何を威張ってるんだか。
ちょっとこれは子供に読ませるのはあれですよねえ。私は知らずに読んじゃって、おかげでトラウマに苦しんだが。

それで文章だけでもこんなにひどいのに、これにビジュアルが付いたらどうなっちゃうんだというので、マンガを読むときもビビったのだが、結論としては動物の絵がユーモラスでかわいいのでグロさが緩和されてる部分と、かわいい絵でしっかりスプラッタ表現を描くのでかえって怖いという部分が拮抗して、非常に興味深いものになっている。

絵柄ももちろんいつもとは違う。すごい描き込みでリアルすぎるぐらいリアルな動物は、タヌキみたいな普通はかわいく描かれる動物でも、見るからに変質者っぽい顔立ちで不気味でグロい。
蜘蛛なんかは逆にかわいく擬人化してるんだが、それでも普通のマンガの蜘蛛とは大違い。8本の足だけじゃなく、触肢(口の両脇に生えてる触角のようなもの)まできっちり描いているし、「六つの眼」(と賢治は書いているが、実際の蜘蛛の目は基本的には8つ。でもおそらく残りの二つは頭の後ろにあって見えないだけだろう)も省略することなくちゃんと六つある。この蜘蛛のアップは虫に弱い人にはかなりグロ。

しかしあのかわいい猫たちを描いてる人がこんな絵も描けるのかと驚くが、実は初期には化け猫っぽいキャラが愚かな人類に制裁を下すというホラーっぽいマンガも描いてるんですね。それでもやっぱり猫なのか(笑)。

とにかくこれ、ますむらひろし以外にもけっこう絵本とかにもなってるようだけど、どういう神経なんでしょう。
もちろんこれは寓話だから、ちゃんとご教訓も入っていて、こういう下界の食うか食われるかの阿鼻叫喚をよそに、各章の最後に登場する眼の碧い蜂の群は、四季それぞれの日々の仕事をこなし、おだやかで平和な暮らしをいとなんでいるのだが、このいつものように透明で美しい牧歌的な文章があるせいで、よけいスプラッタ部分が凄惨に思えるような気も(笑)。やっぱりこの清濁両面が書けるってことが偉大な作家のあかしなんだろうが、詩才がある人が書くといい話はもちろん、嫌な話はここまで嫌な感じに書けるんだなーと心から感心する。

ああ、トラウマがあるせいでつい長々書いちゃったよ。もうトラウマついでで言うと、これは賢治の童話の中では『ツェねずみ』と双璧をなす胸クソ童話。ツェねずみは自分の弱さを逆手にとって、親切な隣人すべての好意につけ込み、ちょっとでもいやなことがあると、「まどうてください、まどうてください(賠償してください)」とわめき散らす、本当にいやなやつ。なんかそういう奴も現実にいるわよねえ(笑)。
最後はもちろん、ただひとり残った友達のねずみ取りに同じことをやって人間に捕まるのだが、ある意味すがすがしいほど極悪非道を貫く『洞熊学校を卒業した三人』より、こっちの被害者面のほうが気色が悪くて胸くそ悪いぐらい。
これの姉妹編みたいな『クねずみ』の主人公もねたみ・そねみ・恨みの権化みたいなキャラで気持ち悪いし、あんなに美しく心洗われるような話を書く一方で、こういう人の醜さ恐ろしさも書けるというのは、まことに真の文学者ならではだと思いました。終わり。

広告
カテゴリー: マンガ評, ★(おすすめ) タグ: , , , , , , , , パーマリンク