★【映画評】ガス・ヴァン・サント『追憶の森』(2015)The Sea of Trees

この映画を見るきっかけとなったのは、例のローガン・ポール事件。【注】

【注】アメリカの痴呆(YouTuberとも言う)が日本でビデオ撮影中、青木ヶ原で自殺死体を発見して動画をアップロードしたことが内外で非難された。もっとも海外の人は自殺死体を前にふざけたり、YouTubeに上げたことで怒ってたが、どっちかというと日本では街中での乱暴狼藉(ホテルの部屋の壁に柿を投げつけたり、そこらの人にモンスターボール投げつけたり、築地で買った生魚を振り回しながら歩いたあげく、通りすがりのタクシーの屋根に載せたり)に怒ってる感じだった。

いや、YouTuberなんぞ私はどうでもいいんだけどね。むしろあんな奴らは全員吊していいと思ってるし。ただ、そのビデオの英語コメントを読んでいたら、「映画で見た」という声が多くて、「樹海が出てくるハリウッド映画なんてあるのか?」と検索してみたら、ガス・ヴァン・サント監督、マシュー・マコノヒー、ナオミ・ワッツ、渡辺謙主演って、これはもう見るっきゃないじゃない。ちょうどAmazonプライムにあったからさっそく見てみた。

最初はすごいおもしろいと思った

Amazonの困ったところは、見るとどうしてもリビューが目に入ってしまうことだが(私は映画を見る前は一切情報を入れない主義)、これはカンヌで大ブーイングを食らったとか。ええー? ヴァン・サントなんて、批評家のアイドルで賞取りの常連じゃない。実際、これも2015年のパルムドールにノミネートされている。
でも例によって天邪鬼の私は、カンヌの観客や批評家が嫌うならきっとおもしろいに違いないと、かえって興味が湧いた。

前半はこの予測が大当たり! めっちゃおもしろいじゃない、これ!(以下もちろんネタバレあります)

妻のジョーン(Naomi Watts)に先立たれたアメリカ人アーサー・ブレナン(Matthew McConaughey)は、自殺を決意して日本に渡り、青木ヶ原樹海に足を踏み入れる。ところが、薬を飲んで死のうとしていたときに、血だらけでさまよっている男ナカムラ・タクミ(渡辺謙)を見かけ、彼を助ける。男も自殺志願者で手首を切ったのだが、死にきれずに道に迷っているらしい。
ブレナンはナカムラを森から出してやろうとするのだが、なぜか入ってきた道は消え、二人は樹海の中に囚われてしまう。二人してさまよううち、徐々に相手の過去が明らかになってくる。

ブレナンとナカムラの出会い

これはおもしろい!と思うよね。いったいこの二人はどういういきさつで死を選ぶに至ったのかが気になるし、ナカムラは出てきたときから明らかにこの世のものじゃない雰囲気なので、その正体が気になるし。
それで最後はどうなるんだろう?とワクワクしながら見ていたが、だんだん冷めてきた。これ、脚本ひどくないか?

なんだこれ?

わざわざ日本まで行って自殺しようというぐらいだから、ブレナンには人には言えない真っ黒な過去があるはず、と思うじゃない。おそらくは、妻を手にかけて殺してしまったか、事故死だとしても少なくとも事故の原因を作ったか、そういうのだろうと。
そしたら妻が脳腫瘍になったので、あれれ? 病死?と思ったら、実は良性の腫瘍で回復してしまう。
しかし、転院のために乗った救急車のくだりが、いかにもお涙頂戴の思わせぶりな作りなので、ああ、ここで事故死するんだなとバレてしまう。それも後から追走しているブレナンの車が追突するんだろうな、と思って見ていたら、突然横からトラックが突っ込んできて救急車を吹っ飛ばしたので吹き出してしまった

いや、ごめん。泣くべきところで吹き出したりして。ここまでは涙ぐみながら見てたんですけどね。こういうのどんでん返しって言わない。これじゃまるでギャグ漫画じゃないかと思ったから。ていうかこれじゃ漫☆画太郎じゃない。(漫☆画太郎の漫画では、作者が面倒になってくると、唐突にトラックが突っ込んできてみんな死ぬ)
それでもまだここで止めておけばいいものを‥‥

ラスト近く、とうとう力尽きて動けなくなったナカムラを、「必ず助けを連れて戻るから」と言って置き去りにしたブレナンは、ひとりで出口を探す。すると今度はあっさり外へ出られ、レスキュー隊に救われる。
追想シーンは、妻の死後のブレナンの様子を見せる。彼は妻のことを何も知らなかったこと――社会保障番号まで知っているのに、彼女が好きな本、音楽、色、季節などは何も知らない――を悔いている。妻が死んだのはそれを携帯で彼に伝えようとしている矢先だった。

退院したブレナンは樹海へ戻り、ナカムラを探しに行く。ナカムラにかけてやった自分のジャケットを見つけるが、その下には死体はなく、代わりに岩の上に蘭の花が咲いていた。ナカムラの説明によると、日本人は人が死んで天国に行くと花が咲くと信じているのだそうだ。
ナカムラの家族を探し出そうにも、同姓同名の日本人は山ほどいると言われたブレナンは、彼の妻と子の名前を書きとめてある。ナカムラが言うには、妻の名前はキイロ、息子の名前はフユだと言う。
って、日本人には最初からバレバレだが、ラスト近くになってブレナンはそれが日本語で色と季節を表すことを教えられる。これはあの世の妻から自分へのメッセージだったのだ。(ちなみに映画の中の季節も冬で、黄色人種の国だが、それも関係あるのか?)

ナカムラって誰よ?

このオチというか、ナカムラの正体については、わざとぼかしてあるが、私の考えでは候補は3つある。

一、実はナカムラはジョーンだった。
あまりに短絡的だし、そもそもなんで彼女がわざわざ日本人のおっさんに化ける必要があるのかわからない。仮に彼がジョーンだとすると、ナカムラが語った自殺理由(会社で窓際に追いやられ、追い出し部屋に入れられたのを悲観して)も意味不明だ。アメリカ人の不動産屋がなんでそんなに日本の会社事情に詳しいんだ? でもいちおうそう思わせる要素もたくさんある。

二、ナカムラは樹海をさまよう自殺者の霊。
なんでか知らないが、ブレナンにくっついてきたジョーンの霊と、ここで死んだナカムラの霊がどうやってかコミュニケートして、中村が彼女の代わりにメッセージを伝えようとした。これがいちおう私の公式解釈。
ナカムラがこの世のものじゃないということは、わりと早い段階でわかる。ナカムラの死体が見つからなかったのも、彼がそこにはいなかったから。あの花もナカムラのではなく、あそこでやっと成仏できたジョーンのもの。
ナカムラ自身は彼が言っていた通りの人物で、おそらくブレナンが出くわした死体のどれか。(テントの死体説が有力だが、証拠はない) 日本人ならブレナンが彼の死体を見て、哀れに思って埋めてやるとか花を手向けてやったから付いてきたという演出をしそう。

三、ナカムラは人間ではなく、森の精だか神様だか知らないが、あの森に住み着いている何か。
根拠はブレナンがえんえんと自分語りをしているのに、ナカムラはほとんど自分のことはしゃべらず、なにやらスピリチュアルなことをしゃべるから。そういう存在が、あそこに迷い込んだブレナンとジョーンの霊を見て、哀れに思って手助けしてくれた。これがいちばん矛盾がないが、いちばんつまらない。

というわけで、それなりにきれいにまとまっていて、しっとりした情感のある、決して悪い映画じゃないのだが、純粋に感動したと言い切るには、何かモヤモヤしたものが残る。それが不評の原因だろう。

あれもこれもモヤモヤする

まず西洋人視点だが、そもそも自殺を美化したりする文化的背景がない。どころか、キリスト教圏では自殺はれっきとした罪であり自殺者は罪人。そこまでファナティックな信者じゃなくとも、いやーな感じがするだけ。これは理屈がどうこうじゃなくて、日本人がローガン・ポールの「食べ物を粗末にする」行動を見て本能的に嫌悪を覚えるのと同じ。

この手のカルチャーギャップは日本人側も同じで、ナカムラが話す出所不明の日本の宗教?にはイラッと来た人も多いだろう。せめてあそこで、日本人の死生観について「正しい」講釈をしてくれたら、ますますカルチャーギャップは広がっただろうが、少なくとも日本人には受けが良かったはずだし、それなりにアートっぽい作品になっただろう。
もちろん逆にすべて西洋式もあり。それじゃ日本で撮る意味ないけど。それがどっちつかずで、結果、日本人にも西洋人にも居心地の悪い感じになってしまっている。

象徴性っていうことで言うと、たとえば最初に色とりどりのテープが張り巡らされた場所を見て、私はなるほど「樹海で道に迷う」=「アリアドネの糸だな」と思ったんだけど、それならすべてそのイメジャリーで統一すればいいものを、糸はすぐに途切れて今度は『ヘンゼルとグレーテル』になる。これが意図的なものであることは、ブレナンが二度目に樹海に入ったときも同じ光景(まず糸玉、それからパンくずの代わりの紙くず)が繰り返されるのでわかる。
こちらはいちおう他にも伏線があって、ジョーンの愛読書が『ヘンゼルとグレーテル』で、それを知らないままブレナンが絵本を樹海に持参したりするんだが、いろいろと突っ込みどころも多い。

大人の愛読書がグリム童話? それもせめて初稿無修正版ならわかるが、絵本?とか、じゃあ、魔女はどこ? お菓子の家は?とか。『ヘンゼルとグレーテル』なのは紙くずを撒くところだけじゃん。
あと、この話には誰もが小さい頃から慣れ親しんでいる日本人が「ヘンゼル」を「ハンサム」と言い間違えるはずがないとか。「ン」しか合ってねー!(笑) これはもちろんゲイ・ジョークを言いたかっただけ――「あんたはハンサムだな」と言われたブレナンが、一瞬、文字通りの意味だと思ってあせる――ってのはわかるけどね。
どっちにしろ『ヘンゼルとグレーテル』日本とも自殺ともなんの関係もなく、とりとめがなさすぎる。この辺、いかにもそれっぽいイメージを取って付けただけって感じで、ヴァン・サントってもっと切れ者だと思ってたんだけど、焼きが回ってきたかな。

食えない夫婦

なんでかキラキラしてるが生前のジョーンとブレナン

モヤモヤその2は、ブレナンとジョーンが露骨に嫌な奴らだってこと(苦笑)。なんかどっちもどっちで、まったく同情が湧かない。夫婦関係のもつれでこうなったってのはわかるんだけど、その前からろくでもない奴らだったとしか。

ブレナンはいちおう科学者なんだが、以前勤めていたまともな勤め先を辞めて、今は大学の非常勤講師(笑)をしている。しかし年収2万ドルの安月給(うう‥‥身につまされすぎてつらい)では、実質、妻に養ってもらっているヒモ野郎。(これも私じゃないが、同業者では身近にいすぎてキツイ。ヒモをやってるやつだけじゃなく、ヒモを養ってる女性もいた。なぜか大学教員とヒモは縁がある)(考えたら私も大学院出るまでヒモだった。そうでなきゃ貧乏人は大学教授なんてなれない)

しかもそれなら主夫でもやればいいのに、気も利かずノラクラしてるだけで、一日中仕事でクタクタに疲れて帰ってくる妻に対するいたわりも足りない。(これも理系の学者だと当然って感じでわかりすぎる)
「もっとちゃんとした仕事を探せ」(そうだそうだ)と妻に言われても、ぐずぐず言い訳だけして何もしない。(すごいわかる) そのくせプライドだけはいっぱしに高く(これもわかりすぎる)、妻にないがしろにされてると感じている。
とどめにこいつは浮気野郎。例によって「一時の気の迷いだ」とか「男というものは‥‥」といった定型の言い訳をしているが、『ノック・ノック』に書いたように、これやったら終わりなんで。ヒモが浮気って完全に終わってるだろ! なんか男として何ひとつ取り柄がない!

一方のジョーンも決してほめられた女ではない。夫がこんなだからか酒に逃げたようで、アル中気味。そして酔っ払うと、人前でも夫の落ち度の痛いところを突いて、ネチネチといつまでも非難し続ける。こんな女もやだ。
あと、これは彼女の落ち度とは言えないが、夫の専門分野についてまったく知識も関心もなく、興味も示さない。普通の女性に高等数学を理解しろというのは無理なんで、これは当然だと思うが、専門バカ(&おたく)には応える。それでいて、「じゃああなたは不動産売買の何を知ってると言うの?」と言い返されると何も言えないんだが。

しかも、なまじ両方とも知的なカップルだけに、いくらムカついても正面切って怒鳴り合ったり、殴り合ったりはしない。ねちねちしたイヤミの応酬になる(あるいは不機嫌に黙り込む)あたりがまた不愉快で、マジで二人とも蹴り入れたくなる。ちなみに喧嘩だけでなく、優しさを見せるときも同じで、相手が見てない隙にこっそり‥‥というのも、かえってイヤミでムカつく。
というふうに、現実にも(特に私の場合は身近に)いそうな夫婦だけに不快感が半端ない。いや、マジで! なまじ映像がきれいだし、演じるのが美男美女のカップルだからみんなだまされてるだけで、これが日本の底辺家庭の不細工なオッサンオバハンの話だと想像してみ。ほら、すごいいやでしょう?

ところがこのカップルが、ジョーンの病気が判明するやいなや、コロッと手のひらを返して、ラブラブカップルになってしまうのは唐突すぎるし、ご都合主義過ぎる。それもやたらメソメソ泣いてばかりの夫婦で、これはまた別の意味で嫌だ。
つまり、険悪になる前はこれぐらいラブラブだったんですよ、と言いたいんだろうが、そこに病気が介在しているから、ジョーンは単に病気のせいで、それもいきなり目の前に死の恐怖を突き付けられて、気が弱くなって誰かにすがりたいだけ。ブレナンはそんな弱った妻が好もしく見え(やっぱり男って頼られたいから。でもこれも考えてみたらひどい)、おかげでこれまで自分がしてきたことに罪悪感に駆られているだけに見える。
つまりどっちも以前同様、自分の都合しか考えてない。何ひとつ反省もしてないし歩み寄ってもいない。それどころか、病気が治れば元の木阿弥ってのがミエミエじゃん。要するに合わなすぎる相手といっしょになったから悪いとしか。

いや、千歩譲って、これがそういうダメダメな夫婦のドロドロした愛憎関係を描いた映画なら、本当に異常にリアルだし、それこそカンヌのグランプリものだった。実際、私は途中まで感情移入して泣いて見てたんだし。だけどこれって、あくまで童話みたいなロマンチックなファンタジーとして作ってるじゃない。そこのギャップがひどすぎて、現実部分にもファンタジー部分にものめりこめないんだわ。

そもそもなんで樹海なの?

そもそもブレナンがなんで樹海で死ぬ気になったのかという、いちばん肝心かなめのところもよくわからん。

「冷たく非人間的な病院で死ぬのはいや」というジョーンの気持ちはまだわかる。冬の樹海のほうがもっと寒いし非人間的だぞ、という突っ込みはなしとして。(しかし彼女は交通事故で死んだから、いちおう望みは叶ったんだな)
でも、だからと言って、死ぬにはまだだいぶ間のありそうな夫に向かって、「だからあなたが死ぬときは理想の場所(A perfect place to die)で死んで」と約束させるのはなんなんだ?! 自分が死んだ後の夫の死に場所がなんであんたに関係あるんだ? 夫がどこで死のうと関係ないじゃん。ていうか夫の勝手じゃん。ていうか、これじゃ夫に「おまえもとっとと死ね」と言ってるみたいじゃん。ていうかそれが最期の願いかよ。いったいどういう精神構造なんだ? 何十年生きてきて、それしか望みがないなんて!

というわけで、やっぱり奥さんも相当おかしかったとしか思えない。「私が死んだらどこそこに埋めて」とかならわかるけど、夫の死に場所を指図するってどういうこと?
まあ無理やり好意的にうがった解釈をすれば、

ジョーンは自分が死んだらブレナンも自殺するのがわかってた。
→ ジョーンがこう言えばブレナンは樹海に行くのがわかっていた。
→ 樹海には何か神秘的な力があって、二人に力を貸してくれるのがわかっていたのでこう言った。

という解釈も成り立たないではないが、オカルト映画じゃあるまいし、なんでただの不動産屋のジョーンがそんなこと知ってたのかとか、樹海で死ななきゃ救済できなかったのかとか疑問だらけだけど。

とにかく作者の思惑がなんであれ、愚直そのもののブレナンは、GoogleでA perfect place to dieを検索すると、出てきたのが青木ヶ原の紹介記事というわけ。この辺もほとんどギャグとしか思えない。死に方をGoogleに決めてもらうなんて(笑)。しかもこの記事のA perfect place to dieってタイトルは明らかに逆説なんだが。
ちなみに本当にそんな記事があるのかと思って実際にググってみたが、本当に同じ題で青木ヶ原を紹介する記事はあったけど、映画とは別の記事だった。単なる便乗企画かも。しかしこいつ、妻との関係では優柔不断な引きこもり野郎だったのに、死ぬ気になるとやけに行動的だな。

あと、青木ヶ原がなんで自殺の名所なのかという理由も、映画だと説明があっさりしすぎていて、一般観客には伝わったのかな?と思う。こちらはローガン・ポールのおかげで全世界に広まったけど。

その他の突っ込み

そしてラスト、なぜか納得して吹っ切れたブレナンが、妻の愛した別荘で、例の蘭の花を育てている場面で終わる。感動のラストのはずが、金づるが死んじゃって、どうやって生計立てるんだろう?とか無粋な疑問が湧くが、奥さんは実際的な人だったみたいなんで、たぶんたっぷり生命保険かけてあったんだろうなとか。

実はこういう映画(現実と幻想が交錯する系の)すごい好きなんだけど、とにかく見ていて歯がゆくて、ここをこうすればいいのに!というところばかりで、イライラさせられ通しだった。

エンタテインメントを撮りたいのか、アートを撮りたいのかの分かれ目もはっきりしない。もちろんこれが成功すれば、「エンタテインメントなのに格調高い芸術性が」と賞賛されるわけで、それが狙いなんだろうが。
エンタテインメントならば、まず夫婦二人をもっと好感の持てる人物にして、生きた夫と死んだ妻の心温まるラブストーリーとして、たっぷりお涙頂戴要素を入れる。
アートならば、あの世からのメッセージなんていうアホらしいオカルト要素は排して、代わりにナカムラをもっとミステリアスな男にする。そしてナカムラがしゃべるご託は、民俗学的に正しいものにして、なおかつもっと哲学的なものにする。実は二人とも死んでいたというオチもありだな。私は実は途中までこれを期待していた。

あと、細かいアラを言い出すときりがない。

個人的には最初サバイバルものにも見えたので、ちょっと期待してしまったのに、二人とも役立たずなのでイライラした。ナカムラなんかベア・グリルズの『MAN vs. WILD』のファンらしいので、もうちょっと役に立つ知識も披露しろよと思って(笑)。
なのにこいつら生き延びるための最低限の努力や頭を使うことをまったくしない。いや、死にに来たんだからあたりまえだとも言えるけど、出会ってからは二人とも完全に自殺は忘れて戻る気満々だっただろ。
ブレナンなんて、冬の樹海でシャツ1枚、滑落した拍子に腹に折れた木が刺さって、鉄砲水に呑まれて、なんで生きてるのかと不思議に思うぐらい。死にそうになるのはどう見てもナカムラよりブレナンのほうだと思うけど。実は死んでるのはブレナンのほうだった‥‥というオチもありだと思って見ていたのに。

あと引っかかったのは、ブレナンの救出後の行動。この時点で彼はまだナカムラを生きた人間だと信じていたんだし、瀕死の友達が救助を待ってるんだから、自分も死にかけとはいえ、もっと騒ぐべきだった。あとからどうやら捜索が行われたことは判明するものの、何も見つからなかったで納得してしまい、ブレナンが樹海に戻るのはずっとあと。もちろんナカムラが人間ならとっくに死んでる。
入院中、「きっと助けに戻る」と約束した人間が山の中で死にかけてることを思って、なんとも感じなかったんだろうか? 病院脱走してでも戻るっていうのがむしろ普通だろうに。

あと、これ言っちゃうと身も蓋もないけど、ナカムラにしろレスキュー隊員にしろ、とっさに外人見て英語で話しかけられる日本人なんていない(笑)。いてもこんな状況でそういう人に出会う確率は天文学的に低い。最初にナカムラが出てきたとき、私が「こいつは生きた人間じゃない」と直感したのもそのせいだし(笑)。

役者について

ここで役者評。ブレナンを演じたマシュー・マコノヒー。ちなみにこのアイルランド系の名字(McConaughey)は、例によってトンチンカンな日本語Wikiでは「姓は正しくはマコノヘイである」と知ったかぶりに書いてあるが、アメリカ人は「マカーナヒー」とはっきり発音してるし、発音辞典にもそう書いてある。決してヘイではないし、日本語表記としてはマコノヒーは十分許容範囲。もうこのWiki編集してる奴(洋画関係に間違いが多いのを見ると同一人物が書いてるとしか)誰か止めて!

マシュー・マコノヒーは昔からハンサムだと思っていた。ここではインテリ役だからか、めずらしくメガネなんてかけてるが、テキサス出身だし、馬にまたがって西部劇に出ると似合いそうな顔。
ただ、演技に関してはここではかなり割引。役が役だからとはいえ、終始硬直した表情で、顔に似合わない高い悪声でボソボソしゃべるのが聞き苦しい。

ナオミ・ワッツは、この人こそネイオミ・ワッツなのにWikiには書いてないな(笑)。もうめんどくさいのでナオミでもいいが、この人はイギリス人だし、かわいいし美人なので『 タンク・ガール』の頃から好きだった。『ツイン・ピークス』でもお世話になりました。そういえばリンチの『マルホランド・ドライブ』まだ見てないや! これテレビにもかからないし、Amazonにもなかったので。
いろんな意味で親友のニコール・キッドマンと相似形(金髪美女だが知的な演技派。オーストラリア育ち。ニコールの方が背が高いけど)なんだが、なぜかあっちは嫌いでこの人は好き。そういえば、ガス・ヴァン・サントは『誘う女』 でキッドマンを使ってるな。あれこそ絵に描いたような「いやな女」を全力で演じて、演技もすごいし、映画もすごいおもしろかった。
でもニコールが順調に魔女っぽくなっていくのに、ナオミは年取ってもきれいだしかわいらしいところが好き。

渡辺謙はすごい微妙。いつもヘンテコな日本人役ばっかりなのに、今回は舞台も(いちおう)まともな日本だし、キャラクター的にはいつになくやりがいのあるはずの役なんだが、ナカムラのキャラクターがはっきりしない――超自然的な存在なのか、生活に疲れた中年男なのか――ため、どっちつかずの曖昧な印象なのはもったいない
それでも謙さんはかっこいいけどね。身長と深みのある声はマシュー・マコノヒーより上だし。いつもながら、こういう典型的なアメリカン・ヒーロー(的な役者)と並んで日本人の方が背が高いのを見るだけで興奮する。って、もしかして私が渡辺謙を好きなのって身長と声だけのせい? それもありかも。英国役者は身長と声があるから不細工でも好きだといつも言ってるし。
しかし日本人俳優で英語できる奴って、渡辺謙か真田広之しかいないのか? 私の見る映画ってこの二人しか出てないんだが。まあ、女優の方は菊地凛子だけだけど。

やっぱりゲイっぽい

まだある。(こうやってエンドレスにズルズル続くのは、実は好きな証拠) 次はホモ要素。監督のヴァン・サントがゲイだし、彼の映画はゲイっぽさが濃厚だからもちろん期待していた。こちらは期待以上。

なにしろブレナンとナカムラは最初出会ったときからベタベタ。いや、二人とも重傷を負って弱ってるからというのはわかるんだが、そのくっつき方がやっぱりゲイのセンス。そこでおっさん同士でマウストゥマウスの人工呼吸はするわ(これは役者が恥ずかしがったのか淡白だった)、ほっぺたとほっぺたをギューッとくっつけて抱き合うわ(普通恋人でもないのにここまで密着しない)の密着ぶり。
こっちが熱々すぎて、どうしても夫婦愛の物語の方がかすんでしまうぐらい(笑)。もしかして、妻とうまく行かなかったのは隠れホモだったからじゃないかと勘ぐってしまう。実はそれでけっこう説明が付くんですがね(笑)。
いっそそういう映画にしても良かったのに。隠れホモで結婚していても不幸だったブレナンが、死に直面して本当の自分を発見するという。ただ、おっさんのラブシーン(じゃないが)見てうれしいかというと、これもやっぱり微妙。ほんとこの映画、私が好きになる要素はたくさんあるのに、かんじんなところで乗り切れないんですわ。

考えてみたらこれって前に見た

次、風景。これでほんとに終わりです。

風景は良かった。何より富士の裾野に広がるThe Sea of Trees(木の海=樹海の直訳)というイメージがなんとも美しい。実情を知ってる日本人にはそれほど美しく思えないが、映画で見るぶんには美しい。私は森も好きなので(もちろん本当に好きなのは北ヨーロッパの森なんだが)風景を見ているだけでなごんだ。
残念ながらその森はロケ地のマサチューセッツの森なのがいまいちだが(もちろん日本ロケもしているが、主な撮影はマサチューセッツ)、やっぱり森はどこの森でも美しいし、スタジオ撮りに逃げなかっただけでもえらい。よくよく見れば違うが、樹海の雰囲気は出てたし。シネマトグラフィは本当に美しい。(イギリスとアメリカの空気の違いには神経質だが、日本はわりとどうでもいいので鷹揚)

というわけで、いろいろ文句はあるが、やっぱり見て良かった。
ヴァン・サントの映画なんて見たの何年ぶりだろう?と思って調べたら、2002年の『ジェリー』が最後じゃない。その『ジェリー』のリビューでも同じこと書いてるし、なんか忘れた頃に見たくなる監督なんだね。

しかし、人間の力を越えた大自然の中に放り込まれた二人の男が、脱出のため生死の淵をさまよいながら放浪する話って、これ『ジェリー』とまったくいっしょじゃん! (いずれもヴァン・サントのオリジナル脚本)
わかった。こういう話が死ぬほど好きなのはよくわかった。(私も好き) だけど、見ていてさっぱりわけがわからず釈然としない、という感想もまた『ジェリー』のときと同じじゃん!

いや、正確に言うとこっちはまだ物語があるぶんましだし、日本が舞台なせいか、そこまでわけわからん感じじゃないけど。あと、デスバレーと樹海とでは環境が違いすぎて、私は樹海の方がずっと好きだけど、ああいうのが好きな人には『ジェリー』も十分美しい風景映画だったしね。それで観客を突き放してイライラさせるのも『ジェリー』と同じと考えると、これはやっぱり意図的なものか。そういうふうに考えると、やっぱりこの映画悪くないし好きかも‥‥と思えてきた。
やっぱり100%ガス・ヴァン・サント印の映画だった。こういう映画撮る人は嫌いにはなれない。

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