★★★【書評】『MORSE -モールス-』(2004)【映画評】『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)【映画評】『モールス』(2010)

正しい者を忍び込ませろ
古い夢は捨てろ
間違った奴らは追い返せ
彼らは決して
決して
きみが望むことはしてくれないんだから

――Morrissey “Let The Right One Slip In”

ああ、くそ、なんでいちいち違う題名付けるんだ。原題まで違ってるし。混乱するが、これはすべて同じ作品で、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト著のスウェーデンの小説『MORSE -モールス-』(Låt den rätte komma in)を原作としたトーマス・アルフレッドソン監督のスウェーデン映画が『ぼくのエリ 200歳の少女』(Låt den rätte komma in / Let the Right One In)、それのアメリカ版リメイクがマット・リーヴス監督『モールス』(Let Me In)となっております。混乱するので、ここでは原作小説、スウェーデン版、アメリカ版と呼ぶことにする。

(言うまでもなく三作とも盛大なネタバレありです。っていうか、もうこれ書くの飽きた。このサイトの記事はすべてそうなんで、嫌な人は見ないで下さい)
(今回はわけあって映画の写真は下の方にまとめてあります)

この作品はずいぶん前に翻訳小説を読んだ。『ドラゴン・タトゥーの女』のところで書いたような、最近はやりのスウェーデン・ミステリ(ホラー)だが、『ドラゴン・タトゥーの女』はぜんぜん気に入らなかったが、こちらはかなり気に入って、特に映画とは相性が良さそうだったので、映画化されるという噂を聞いて楽しみにしていた

ところが、なんとなく見そびれたまま今まで来ちゃって、たまたま今頃になって見たら、なんか違うんであわてて調べたら、私が見たのはハリウッド版リメイクで、オリジナルのスウェーデン映画とはかなり違うみたいだったので、スウェーデン版も合わせて見て、ついでにほとんど内容も忘れていた原作も読み返すはめになったので、もう合同リビューにした。
だけどこれ書いてる間に(試験で忙しかったし、その他いろんな映画も見てるし、オリンピックも見てるし)、またも話を忘れて、なんか全部がごっちゃになってわけわかんなくなってきてるけど、三作とも三者三様に見所のある作品なんでなんとか書く。

いや、何をあわてたかというと、原作を読んだのはもうかなり前なんで、話はすっかり忘れてたというか、これが吸血鬼ものだってことさえ忘れてたのに、「女の子だと思っていたヒロインが実は去勢された男の子だった」という衝撃の事実だけは覚えていたのに、アメリカ版のヒロインは普通の女の子だったので「えええー!」となっただけ。
それでスウェーデン版を見たら、ちゃんと男の子になっていたが、それさえ除けばほとんどアメリカ版といっしょなので、どっちもわりと原作に忠実なんだな、と思っていたら、原作を読み返したらぜんぜん違うので、またも「ええええー!!!」

なんか衝撃のあまり、アメリカ版を見たら原作を忘れるし、原作読み返したら映画を忘れるし、そもそも原作読んでるのに、映画見たときにはすべて忘れてたし、えらくインパクトのある話のわりに忘れやすい話みたいなんで、頭を整理するために先にあらすじ書いておこう。映画のあらすじはけっこう見かけるが、原作のあらすじちゃんと書いてるところないから。

『MORSE -モールス-』(小説版)あらすじ

1980年代初頭、ストックホルム郊外のアパートに住む12歳の少年オスカルは内気で孤独な少年だった。彼は母親と二人暮らしで、両親は離婚している。彼は学校でひどいいじめに遭っており、そのせいかナイフで木を刺していじめっ子を殺す夢想にふけったり、猟奇殺人に異常な興味を持っていて新聞記事をスクラップしたりしている。

ある日、オスカルの隣のアパートに同世代の少女エリと父親らしい男が引っ越してくる。学校にも通わず、夜だけアパートの中庭に姿を見せるミステリアスな少女に、オスカルは強く惹かれる。
パズル好きらしいエリにルービックキューブを貸したことをきっかけに彼らは仲良くなる。二人はモールス信号でお互いの部屋にいるときも交信するようになり、オスカルが学校でいじめられていることを打ち明けると、エリは彼に強くなって戦わなくてはだめだと諭す。

実はエリは吸血鬼で、少女でもなければ子供でもなく、同居しているホーカンも父親ではなかった。彼はペドファイル(幼児性愛者)で、それが発覚して教師の職をクビになり、路頭に迷っていたところをエリに拾われたのだ。
ホーカンはエリを「恋人」として崇拝しているが、エリは冷ややかで、生き血を調達するのに必要な召使いとして彼を利用しているだけの様子である。ホーカンは殺人に罪悪感を感じてはいるが、エリに対する盲目的な愛からそれを自分の義務と思っている。
しかしオスカルと知り合ってからエリは変わり始める。ホーカンといるときも、まるで本当の子供のように振る舞うようになってきたのだ。
それを見たホーカンは嫉妬と欲望に苦しみ、血を持ってくる代わりに一晩だけいっしょに寝てほしいと懇願する。エリはいっしょに寝ることは許すが、それ以上のことは許さない。

ホーカンはエリのために新鮮な血液を求め、次々と殺人を犯していたが、ある日襲撃に失敗し、警察に追い詰められて、(身元をわからなくしてエリを守るために)自ら硫酸で顔を焼き、病院に収容される。
入院しているホーカンの様子を見にエリが病室を訪れると、彼は最後の望みとして自分の血を飲んでくれと頼む。エリは「でも、そのあとであんたを殺さなきゃならない」と言うが、まさにそれがホーカンの望みだった。

---------ここからあとが映画と違う---------

しかしその最中に邪魔が入り、エリは逃げ、ホーカンは病室の窓から身を投げる。しかしそれでも死にきれず、彼はゾンビのような怪物に、理性を失ってエリに対する欲望だけに突き動かされる怪物になってしまう。

一方エリと親密さを増したオスカルは彼の正体を知る。エリが女の子でもなく吸血鬼だったことにはさほど驚かないオスカルだが、さすがに彼が人を殺さないと生きていけないことには嫌悪を示す。
エリはオスカルが眠っている間に書き置きを残し、ずっと孤独だったこと、彼を好きなことを訴え、それでもオスカルがいやなら自分は出て行くと伝える。オスカルは結局ありのままのエリを受け入れる。

オスカルは自分の家にエリを招き入れる。そこで初めてエリの裸身を見、彼の股間には何もないことを知る。本当の自分を知ってもらうためにエリはオスカルにキスする。するとオスカルにはエリの過去が見える。
220年前に生まれたエリは、権力者らしき吸血鬼の生け贄にされ、去勢された上で吸血鬼にされたのだ。彼と別れた後、オスカルは自分も吸血鬼になってエリといっしょに永遠に生きることを夢想する。

エリはひとりで地下室にいるときにホーカンに不意打ちされ、強姦されそうになる。人間ならばエリの怪力の敵ではないのだが、化け物化したホーカンはエリでも手に負えない。それでもエリはホーカンの目に箒の柄を突き立て、心臓を握りつぶすのだが、それでも死なない。エリはホーカンを地下室に閉じ込めて逃げだし、残されたホーカンは偶然迷い込んだオスカルと同じアパートに住む少年トンミに殺される。

一方、地元に住むアル中の中年男ラッケは、親友のヨッケを殺し恋人ヴィルギニアを吸血鬼にした犯人を追っていた。その間にヴィルギニアは自分が吸血鬼になろうとしているのを知って、太陽の光を浴びて自殺した。
ラッケは手がかりを追ってエリのところへ行き着き、傷を癒すために血を満たした自宅の浴槽の中で眠っているエリを発見するが、相手が幼い子供の姿をしているのを見ると、なかなか手が下せない。
そこへオスカルがやってきて、エリがラッケを殺すのを目撃する。

オスカルもまたエリと出会って変わった。彼の助言に従って体を鍛え、いじめっ子のリーダー、ヨンニの耳をつぶすという仕返しをしたのだ。しかし、それを恨みに思ったヨンニは麻薬密売人の兄の力を借りて、オスカルに復讐をたくらんでいた。
夜のプールでヨンニたちにつかまったオスカルは、5分間プールの中で息を止めていなければ片目をえぐり出すと脅迫される。
溺れそうになり、ナイフで目をえぐられそうになった瞬間、エリが助けに来る。翌朝、警察はヨンニと兄が頭をもがれて殺され、オスカルが行方不明になった事件を捜査している。生き残った生徒たちの証言によると、天使が来てオスカルを助けたと言う。

ラストシーンでは、巨大な古めかしいトランクを持った少年がひとりで列車に乗っている。

『モールス』の吸血鬼

吸血鬼の性質は驚くほど、本家ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』に忠実な作りになっている。

  • 不老不死である。不死と言っても老衰では死なないだけで、特定の条件下では傷つくし死ぬ。外見年齢は吸血鬼になった年齢で固定。
  • 素手で人間の心臓をつかみ出したり、首を引きちぎれるほどの怪力の持ち主である。
  • おなじみのコウモリに変身するシーンはないが、ラストの生徒たちの証言によると翼があって空を飛んだというので、変身もできるらしい。(映画では飛ぶ代わりに猿のように垂直の壁をよじ上っていた)
  • 血を吸わないでいると、たちまち老化して死んでしまう。血以外の食べ物は受け付けないで、食べても吐いてしまう。
  • 死体の血ではだめで生き血しか飲めない。生きた人間からとった血ならストックは可能らしい。
  • 吸血鬼に血を吸われると感染して吸血鬼になる。それを防ぐには首をちょん切るとか燃やすとか、生き返らないように殺せばいいらしい。
  • 日に当たるとたちまち燃え上がって死ぬ。
  • そのため日中は家で寝ていて、夜だけ活動する。寝るのはべつに棺の中でなくてもいい。冬眠のように何か月も眠ることもできる。
  • 他人の家に入るときは許可をもらってからでないと、全身から出血して死ぬ。(これが原題の由来)

ラッケの恋人ヴィルギニアが最後まで人間としての理性を保っていたのに、原作のホーカンが怪物になった理由はよくわからない。吸血鬼になる途中で死んだので文字通りの生ける死人になってしまったのか、元々がペドファイルの犯罪者だから理性より本能が勝ってしまったのか、あるいは吸血鬼のすべてがエリのようになるわけではないのかもしれない。
おそらくそのすべてなんだろうが、化け物になってからのホーカンの様子を見ると、どう見ても吸血鬼と言うよりはゾンビなので最初の説がいちばん有力。

ブラム・ストーカーの吸血鬼は強みよりも弱点のほうが多く、モンスターとしては恐ろしく弱っちいというのは、前にどこかで書いたことがあるが、この吸血鬼も同様だ。なにしろ眠っている昼間に襲われたらアウトなんで、隠れ場所が必要だし、日中守ってくれる人間が必要。まして12歳の子供の姿では、社会の中でばれないように生きていくだけでも大変だ。
少女吸血鬼というのはなぜか人気のある素材で(なんで人気かはだいたい想像が付くが。女性向け吸血鬼は必ず美青年なのといっしょよね)、アン・ライスの小説でも出てきたし、Skyrimにも出てきた。これはそれをひとひねりして、少女のように見える少年というところが新しい。

原作について

私はアメリカ版を先に見たので頭が混乱したが、まずは原作とスウェーデン版の違いを見ていこう。

当然ながら、映画にするためにはかなりのサブプロットを省略してある。上のあらすじでも省略したが、ラッケをはじめとする中華料理屋に集うダメ男たち(社会的には敗残者だが、それほど悪い連中ではない)の話や、トンミたちアパートに住む不良少年グループ(グレてるがそれほど悪い子たちではない)の話は、かなり印象的だしよく書けていたのだが、やはり本筋とは直接関係ないためか、映画ではほとんど削られている。(関係ないが、ああいう連中がたむろってるのはイギリスなら必ずパブなんだが、スウェーデンは中華料理屋という衝撃!)
映画はそういうサブプロットを削って、エリとオスカルの話を取り出しただけ‥‥と、映画を見たときは思っていたのだが、単に私が忘れていただけで、小説を読んだら、実はクライマックスに至る後半のほとんどすべてがカットされていた。

というのもこの小説、前半と後半でガラッと雰囲気が変わるのだ。出だしを読むと、吸血鬼という特異性はあれ、疎外された孤独な少年少女の淡い恋物語と読めなくもないし、当然そういうひと味違うラブストーリーが狙いなんだと思ってた。『小さな恋のメロディ』闇落ち版という感じで(笑)。
いや、実際、二人のぎごちなくも初々しいやりとりはすごくかわいいし、ほっこりさせる。ホーカンとエリの殺人はかなり残虐だが、それでもエリは生きていくため、ホーカンは歪んだ愛のためと考えると、それほどひどい印象はなく、むしろ切ない感じだし、ホーカンみたいな性犯罪者ですら哀れで気の毒な人に見える。

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アメリカ版のアビーとオーウェンの出会い――闇落ち版『小さな恋のメロディ』

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上の写真と同じシーン――スウェーデン版オスカルとエリ

ところが後半になるとこの印象が一変する。オスカルとエリは勝手にラブストーリーの続きをやっているのだが、まずホーカンの変貌ぶりがやばい
生きてる頃はそれなりに同情できる人物だったのに、ゾンビ化したホーカンは顔は硫酸で半分溶け、墜落の衝撃で手足もボロボロになり、残った片目もエリにつぶされ、心臓まで握りつぶされた姿で、陰茎をおっ立ててエリに迫るんだからマジでグロいし、イヤすぎる。最後はトンミに挽肉にされるのだが、この描写もグロ。

ラッケとヴィルギニアのエピソードもかなりショッキングだ。こちらの愛は本物なのだが(それもくたびれた中年女と、中年のダメ男の組み合わせってところが泣かせる)、吸血鬼感染と戦うヴィルギニアの様子が凄惨で、死に方も無残すぎる
オスカルの復讐も、積もり積もった恨みとか、もともとかなりアレな子供だったことを考えれば当然だが、子供の仕返しにしては情け容赦なく残酷なところがけっこうショック。
それに合わせてオスカルに対するいじめもエスカレートし、最後のプールのシーンなんてもう子供のいじめじゃないよ。もちろんエリはそれに倍返しをして兄弟を虐殺するんだが。
そしてとどめはもちろんオスカルがエリの記憶の中に入り込んで見るエリの去勢シーン

というわけで後半はやたら血生臭くグロい描写が多いのだ。同時にエリとオスカルももう微笑ましい子供たちには見えず、それぞれのダークサイドが垣間見える。やっぱりこっちを描きたかったんだな。
それにしても前半はホラー風味のちょっといい話だったのに、後半は身も蓋もない下品なグログロホラーになっちゃったのはちょっと残念。読んでいて、この辺がやっぱり英米小説と違って垢抜けない部分だなと思った。まあこれはB級ホラーとしては王道だし、無垢な前半との落差があるからおもしろいんだが。
でもB級ホラー好きの私が後半の話はきれいさっぱり忘れてたぐらいだから、もともとこの部分はなくてもよかったという見方もあり。

映画と原作の違い

ところが映画はスウェーデン版、アメリカ版どちらもそのダークな部分をさっぱりとカットして、前半のイメージで小ぎれいにまとめてある。具体的にはいちばん重要な脇役であるホーカンを、窓から飛び降りたときに死んだことにしてしまい、よって彼がエリを追うエピソードは全部カット。ラッケとヴィルギニアの話も大幅に短縮してある。

これはまあ当然のような気もする。エログロなんかないほうがより多くの観客を集められるし。あと、やっぱり見かけが子供なので、あまり露骨な表現は映像化するとヤバい面もある。
それに前半と後半の矛盾した感じが消えて、話としてもコンパクトにまとまる。だから大なたを振るったスウェーデン版は賢い映画化だと思う。アメリカ版はそれをまるまるパクっただけ。

逆にカットしたことによるマイナスはと言うと、やっぱり見せ場になる残酷シーンが少ないのでホラーとしてはやや退屈になる。特にカットされた後半は物語が結末に向かって一気に動き出す部分で、アクションも多い。それを全部削ってしまったので、アクションやサスペンスを欠いた、ずいぶんスローで静かで地味な映画になってしまった。それでもスウェーデン版はまだけっこうダークなんだが、アメリカ版はもう完全におしゃれなヨーロッパ映画のノリ
私みたいに原作をきれいに忘れてた人間は、どっちも違った味で二度おいしいからかえって得したが、原作を読んでからああいうホラーを期待して映画を見た人はかなりがっかりしたんじゃないかな。私も原作読んだ直後だったら、きっと冒涜だ改竄だとカンカンに怒って映画をけなしてたと思う。

あと、些細なことだが、エンディングの列車のシーン。映画はどっちにもあったオスカルとエリーがトランクの外と中でモールス信号で交信するシーンは映画のオリジナル。原作では少年がオスカルだということも書いてないし、トランクの中にエリがいることも明示されてない。もしかして‥‥?と思わせるだけ。
これはたぶん、鈍い観客にもわからせるためだな。でもちょっとおしゃれで気の利いた演出だと思う。しかし、まったく同じシーンが、よく考えるとスウェーデン版とアメリカ版では正反対の意味を持つことになる。というところで次はこれ。

スウェーデン版とアメリカ版の違い

というわけで原作の暴力描写やグロい部分はかなりソフトになっているが、それでもスウェーデン版は、ホーカンの焼けただれた顔面(というか、もと顔があった場所にあいた穴)はじっくり見せるし、(アメリカ版はフォームラテックスを盛っただけなので、仮面でもかぶっているように見えて、ちっとも怖くない)、最もショッキングなエリの切り取られた性器のあと(つるつるになった股間にひどい傷跡が残る)まで見せる。(日本ではここはモザイクがかかってたそうだ。何もないから隠すというこの矛盾!) 原作では股間には何もなかったというだけで、詳細なんて書いてないので、こっちの方がよっぽど露骨だ。その代わり、さすがにちょん切られる場面は映画には出ないが。

このエログロに関しては、アメリカと比較してみるとおもしろい。私が以前から思っていた通り、ヨーロッパはエログロに寛容だからここまで見せられるが、アメリカ版はまずエリ(名前はアビーに変わっている)が去勢された少年だという設定をなくして、普通の女の子(普通じゃなくて吸血鬼だが)にしてしまった結果、いちばんショッキングなところは消えた。これだけでまるっきり印象が変わり、原作のインモラル性は和らぐ。

その代わり、アメリカ版は血だけは盛大にドバドバ流れる。スウェーデン版では隠したり、ほのめかすだけだった、人の首を食いちぎったり、吊るして喉を切り裂いたりするところを見せるのはOKらしい。
アメリカ版は犠牲者を襲うときのアビーの変身した顔も映すが、例によってただの猿顔になってしまっている(人間に牙や毛を生やすと、どんな美少女でもそうなる)のでこれはいらないな。

少年たちのいじめもアメリカのほうがえげつなく残酷に見える。あとこれは役者の違いだが、いじめっ子たちはこっちのほうが圧倒的に憎らしい。それにくらべるとスウェーデン版の少年たちはまだまだ子供な感じで、ラスト、いじめっ子の兄(ティーンエイジャー)が出てくるまでは単なる子供同士のいじめに見える。これはいちおう原作通りで、オスカルがいじめっ子に反撃することを覚えると、急に相手がただの子供に見えてくるという描写通りだ。

役者の違いとエリを女の子にした以外は、アメリカ版もスウェーデン版とほとんど変わりないと言っていいぐらいだ。っていうか、スウェーデン版の丸コピーに見える。かろうじてアメリカ版とスウェーデン版の違いは、

  1. アビー(エリ)が女の子。
  2. トーマス(ホーカン)が硫酸を浴びて病院に運び込まれるところから始まり、それから少し過去に戻る。
  3. ホーカンは原作では教師をクビになった後でエリに出会うが、アメリカ版では同年代(12歳ぐらい)のときに出会ったらしいことがほのめかされる。
  4. 舞台をニューメキシコ州ロスアラモスに変え、それに合わせて登場人物の名前もアメリカ名に変えている。

と、これぐらいか。とにかく後半全カットというスウェーデン版の大なたをそのまんま模倣してるんでは、単なるコピーと言われてもしょうがない。

4に関しては、リメイクではあたりまえのことだが、『ドラゴン・タトゥーの女』では違ったので一瞬「あれ?」と思った。原作に思い入れのある人間にとっては名前が違うのはいやだが、キャラクター自体がここまで違うと、かえって同じ名前だとおかしくなるからやむをえない。
それよりこの物語はすべて一面の雪の中の出来事なので、ニューメキシコに雪? 緯度は北アフリカぐらいなのに、そんなバカな! と思って調べたら、降るんですね。今日の気温も零下だったし。大陸恐るべし。(でも、あらためて見返したら、雪が露骨に偽物っぽかった。上のジャングルジムの写真を見比べるとわかる。この座布団みたいなのが雪!)

ただ、エリという名前は意味があるので、それが消えちゃったのはちょっと惜しい。病院に担ぎ込まれたホーカンが、「エリ‥‥エリ‥‥」とつぶやくところが、聖書のキリストの最後の言葉、エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)に引っかけてあり、登場人物もそれに言及しているのだ。
エリは彼にとってまさに神であり、彼はそのエリに見捨てられたのだから合ってる。というか、たぶんエリという命名はこの目的でされている。
さらにラストではエリは天使にたとえられており、明らかに地獄の天使ふうのキャラクターなのに、アメリカ版ではどっちも削除されたために、原作の宗教性は消え失せた。これはちょっともったいない。
「エリー」は普通にアメリカ人の名前でも通用するんだからそのままでも良かったのに。でなきゃ天使を連想させる名前(アンジェラとかガブリエラとかミカエラとか)にするとか。

でも3はちょっとうまいと思った。

原作とアメリカ版の違い

つまりオーウェン(オスカル)がアビーの部屋に入ると、そこにはアビーが同年代の少年といっしょに写っている写真があるのだが、少年の顔にはトーマス(ホーカン)と同じ形のあざがあるのだ。(もちろん原作のホーカンにはそんなあざはない)

なんでこれがうまいかというと、オーウェンは単なるトーマスの代用品なのではないかということをほのめかしているから。原作のホーカンは薄汚い幼児性愛者なので、あまり同情の余地はないし、エリが彼に冷たい理由もわかるのだが、もしホーカンが子供時代にエリと出会って、彼女と恋に落ちていたら‥‥
今のオーウェンとそっくりじゃん! ということはオーウェンも将来、アビーに軽蔑されながら使い捨てられ、みじめに死ぬ未来が見えるのだ。
これは原作でも暗示はされていたが、ある意味これは原作よりキツい終わり方だ。アメリカ版はスウェーデン版以上に、ロマンチックな幼い恋の物語っぽく作られているから余計きついかも。

でもこれは実は少女吸血鬼ものの常道。つまり、中味はババアであっても姿が少女である以上、大人に頼らなければ生きていけないのよね。生活費は殺した相手から奪うことでなんとかしているようだが、昼間動ける大人がいないと、アパート契約をすることすらできない。だいたい子供がひとりで生活していたら、それだけでも怪しまれて詮索されてしまう。
だから少女の魅力で男をたぶらかして‥‥というのがこの手の定石なんだが、アメリカ版のアビーは年は200歳でも中味も決して成長することなく少女のままとして描かれているので、薄汚い変態じじいを色仕掛けでたぶらかすというのはアビーには合わない。(スウェーデン版のエリはそれぐらい平気でやってのけそうな感じ)
でもアビーはいつまでも純真な少女のままなのに、当然ながらオーウェンはいつか薄汚いおっさんになるわけで、それに定期的に殺人を繰り返していたら、精神的にも確実に病むだろうし、そしたらアビーに愛想を尽かされて‥‥というのは容易に想像できるし、トーマスもそうだったんだろうなあと思うと、彼にも同情がわく。因果な関係だなあ。吸血鬼じゃしょうがないけど。でもこれはこれで切ない悲しい話で、原作とはまったく別物だけどいい話だと思った。

というわけで、あのラストシーンも、スウェーデン版では「これまではやむなく我慢してキモいジジイと暮らしてきたけど、これから本当に好きな人と新生活!」という喜びが感じられるのに、アメリカ版だと「前のやつは年取ってヤキがまわって使えなくなったけど、幸い生きのいい後釜見つけられてラッキー!」という感じの皮肉なエンディングになってしまうわけ。

役者について アメリカ編

しかしそんなプロットの違いなんて、ビジュアルの圧倒的力にくらべればものの数ではない。これはやはり映画は役者というのを思い知らされる映画でもあった。スウェーデン版とアメリカ版はほとんどパクリと言っていいほど似てるんだが、子役が違うだけでここまで印象が変わるものか!というので、ここで役者評。

アビー役にはまたかという感じの、「アメリカの国民的美少女」クロエ・グレース・モレッツChloë Grace Moretz)。この子が本当に美少女かどうかは異論もあろうが、まだ12歳かそこらだったクロエはさすがに初々しくかわいらしい。
でも美少年がエリを演じることを大いに期待して見始めた私は「クロエ・グレース・モレッツが男の子の役?」と憤慨した。最後まで見て本物の少女という設定だと気付いたが、そう思ってみればこれは適役だろう。クロエはまあ額面通りかわいらしくて、それ以上でもそれ以下でもない。
ただこれは『キャリー』のときも感じたが、血はまったく似合わないし、ぜんぜん怖くもないので、やっぱり吸血鬼としては失格かな。

問題はオーウェンを演じたコディ・スミット=マクフィーKodi Smit-McPhee)である。いや、問題と言うより収穫なんだが。すでに書いたように、彼のことはマイケル・ファスベンダーの『スロー・ウエスト』で成長後の姿を先に見てしまった。大人になったコディはあそこに書いたように、かなり特殊な容貌のおかげで好き嫌いが分かれるところだが、ここでは彼もほんの子供(クロエの1歳上)。
この手の子は小さいときはかわいかったはずと予想できたのでちょっと期待したが、やっぱりかわいかった。

うん、やっぱり目が離れすぎなのは気になるが、クロエよりよっぽどかわいい、かどうかは別として、彼女よりよっぽど女の子っぽくないか? だいたい白人美少女って男顔だから、私も最初はクロエに違和感おぼえたが、まあこれでも男の子に見えるかと思い直したぐらいなんで。

とにかく二人ともお人形みたいなかわいらしいカップルで、私は(特にアビーが女の子とわかってからは)どっちらけで見ていた。
アメリカ映画の子役というと、演技がうますぎて小憎らしいタイプが多いが、この子たちはどっちもいかにも気弱そうで、いつも猫背で下向いて、メソメソしたカップルで、どっちも小さい声で今にも泣きだしそうなしゃべり方するし。
私は子役マニアなんだが、こういう子供嫌い。それにアビーは吸血鬼なんだし、オーウェンだって最初の方見てると立派な変質者候補の異常な子なのに、このキャラは無理がありすぎるし原作とは似ても似つかない。

と、ブツブツ言いながら見てたのだが、でも彼らがあまりに無垢で純情そうなので、だんだんかわいそうに思えてきてしまった。まあ、アビーは言ってみれば無理やり業病に感染させられた被害者であって、そのため220年も苦しみ続けるってのはかわいそうだよな。
それに前述のようにこの手の少女吸血鬼は中味はババアというのが相場なんだが、このアビーは中味も永遠に少女のままらしい。子供がこんな苦しみを味わうのもかわいそう。
コーディもクロエよりむしろ女っぽくて痩せっぽちで小さいので、彼がいじめられている様子は本当にかわいそう。
それでオーウェンのアビーに対する思いっていうのも、恋と言うより「いつもひとりぼっちでかわいそう」、「お菓子も食べられなくてかわいそう」みたいな、いかにも子供らしい同情から来ているようで、なんか胸がきゅーっとする。
それでつい、彼らに同情してしまい、「こういうのもありか」と思ってしまう。ただあの写真があるから、ある意味こっちの方が残酷な結末なんだけどね。

アメリカ編の役者で大当たりだったのはトーマス(原作のホーカン)役のリチャード・ジェンキンス(Richard Jenkins)。原作通りなら最後まで大活躍のはずなのに途中であっさり死んでしまうかわいそうな役(元は彼もオーウェンみたいな子供だったことを思うともっとかわいそう)だが、ここではなんかすごい怖い

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リチャード・ジェンキンス演じるトーマス

クロエ=アビーがちっとも怖くないぶん、このおっさんががんばった感じ。アメリカ版は彼が硫酸浴びるシーンから始まるんだけど、最初から順を追って見てればなぜそうなったのかもわかるのに、いきなりだからわけわからなくて怖いんだよね。アメリカ版だと変質者じゃないはずなのに、出てきたときから変質者に見える。獲物を待ち伏せるのに、黒ゴミ袋かぶって目だけ穴開けた姿もすごい怖い。

これはやっぱりあそこでトーマスを殺さずに、彼をゾンビにしてクロエちゃんを追いかけ回させたほうがよかったんじゃない? そしたらいっぱい見せ場が作れただろうに。それでそのクロエをコーディくんに助けさせる。その方が普通のハリウッド映画らしかったのに。
でもそうはならずに映画は変におしゃれに終わる。

役者について スウェーデン編

話が前後したがこっちがオリジナルのスウェーデン版。アメリカ版がいろいろあれだったので、それならこっちのほうがまともだろうと思って見た。ところが始まってすぐ後悔した。というのもエリとオスカルがこうだったので。

うわわわー! なんだ、これは!?
アメリカ版のクロエとコーディを見てほっこりしたあとだったので、これはきつい。

エリ(リーナ・レアンデション Lina Leandersson)はかわいいどころか、汚い縮れ毛を振り乱したおばさんみたいだし、オスカル(カーレ・ヘーデブラント Kåre Hedebrant)は老けてるだけじゃなく苦手なタイプの北欧顔だし、おかっぱ頭だし!
なんか日本人には金髪信仰があるみたいだが、本物の北方系の金髪はだめだといつも言ってたのはこれのせい。髪だけなら確かにきれいだが、ナチュラルブロンドの人ってまつげも眉毛も肌も真っ白で、おじいさんかアルビノみたいだし、顔も不細工が多いような気がする。髪や目の色は黒っぽいほうが絶対かわいいんだって。しかもこのおかっぱ頭!(髪型は時代背景のせいもあるけどね)
というわけで、こちらの2人は同じ子供でもかわいげなんかみじんもない。やっぱりこういうのを見るとアメリカの子役はあざといほどかわいいというのがよくわかる。(イギリス子役は普通にかわいい)(やけにひいきが過ぎるのは私がやっぱりアングロサクソン系しか好きじゃないからである)

すでに述べたように、スウェーデン版とアメリカ版はエリが男か女かぐらいしか違いがなくて、あとはほとんど同じなのだが、とにかくここまで子供たちのルックスが違うと印象もガラッと変わる
それで最初のうちは苦虫かみつぶしながら見てたのだが、見てるうちにだんだん許す気になってきた、というのもアメリカ版のときと同じだ。

つまり、原作のどこにもエリとオスカルが美少年だなんて書いてはいないのだ。(覚えてないけど、オスカルはエリを見てきれいだと思ったかも) だからこの程度だとしてもちっともおかしくないし、お人形さんみたいなあっちのカップルより、このほうがリアルかも。アメリカ映画は例によって、人間だけじゃなく町も家もすべてがきれいすぎて嘘っぽい。
あと、エリは血を飲んでいないとたちまち老け込んで汚くなるという設定だから、ちょっとすさんで荒れた感じなのは原作通りなのだ。(この子役は素顔だと普通に美少女です) それにくらべ、いつでもかわいらしい(人に噛みつくときだけ猿になる)クロエは、やっぱりどう見ても吸血鬼に見えなかった。単にオーウェンに「きみ臭いよ」と言われるだけで(笑)。
あと、こちらのエリはあくまで男の子なんで、男の子でこれなら十分かわいいよね。しかしどっちにしろ、エリを美少年に演じさせるという選択肢はなかったのかね? 北欧あたりなら腐るほどいるから期待してたのに! でもこの子もいいなと思ったのはこの目!

これこれ、どこの場面かは忘れたけど、リーナはこの目がすばらしくいいんですわ。これ見たとき、クロエなんて目じゃなくいいと思ったわ。

それに引き替え、カーレくんのほうはもう生理的に無理、と思ってた。コーディがあんなに小さくて細くて弱々しかったのに対して、年のわりにすごい老けてる(そうは見えないけど、これでも声変わり前)し、背高いし、服脱ぐと子供体型なりにけっこう胸板とか厚いし、なんかもう今から近い将来、筋肉モリモリで無骨な北欧バイキングになるのが見えてる感じ。
この、大人だか子供だかわからないところが、なんかだんだんエロく見えて来ちゃって‥‥。幽霊みたいな白さも慣れてくると普通に見えてくるし、黒髪のエリとの対比も違いすぎてまるで陰と陽のようで、全身色がないのに血のように紅い唇が色っぽすぎて。なんかこっちのほうが吸血鬼みたい。

そう、アメリカ版になくてこちらにあるのはエロティシズムだ。あっちはあくまでかわいい子供のおままごとみたいな恋だったけど、こっちは何もないのに露骨に性的な感じがする。何もエリがあそこまで見せたからというのではなく、オスカルがやたらと裸になるからでもない。
もともと吸血鬼の何がいいって性的なところでしょ。血を吸うという行為自体がすでに性行為のメタファーだし。でも子供じゃそれは無理と思っていたけど、この子たちは何もしなくてもエロい。

特にエリが寝ているオスカルのベッドに裸で入ってくるところが最高。もちろんこっちのエリはアメリカ版と違うから、それがどういうことかはわかってるはずだけど、「見ないで。目をつぶって」と言われた幼いオスカルは、身を固くしてエリに背を向けて寝たまま動けない。ここからの会話がすごい好き。(英語字幕からの翻訳なんで正確さは保証しない)

O「エリ、僕の恋人になりたい?」
E「どういうこと?」
O「僕のガールフレンドにならない?」
E「オスカル‥‥僕は女の子じゃないよ」
O「恋人になりたくないの?」
E「今のままじゃだめなの?」
O「うん」
E「恋人になると何か特別なことをするの?」
O「ううん」
E「じゃあ何もかも今と同じ?」
O「うん」
E「それなら恋人になってあげる。君と僕」
O「本当に?」
E「うん」
O「良かった」

これでオスカルは安心して眠りにつき、エリはオスカルの手を後ろからそっと握りしめる。


うあああ!!! こんな切なく美しくエロチックなベッドシーン見たことない。(このシーンはアメリカ版にはなかったはず)
すごいエロチックな状況なのに、会話内容はあくまで子供らしく微笑ましい内容なところも妙にセクシーだし。(見かけは)子供同士というところも、男の子同士というところも(ひとりは男でも女でもないけど)、吸血鬼と人間というところも、すべてが倒錯的でありながら禁欲的なところがかえってエロチックという超上級者向けエロティシズム
ここではオスカルの方が(髪型と色白のせいで)女の子っぽく見えるのもいいね。

ここまで見たあたりで私は完全にこの2人のファンになってしまった。こうなるとアメリカ版が幼稚っぽく見えてくるのと同時に、騒々しくて下品な原作より、やっぱりこっちのほうがいいやと思えてくる。いや、これは久々の傑作だよ。ロリコンでなくても萌える、私好みのひと味違う恋愛映画。

最後にタイトルについて。原題とスウェーデン版のタイトル、『Låt den rätte komma in』は英語にすると『Let the Right One In』の意味で、エピグラフに使ったモリシーの曲名から取っている。これはもちろん、入れてくれと頼んで承諾を受けないと建物に入れないという吸血鬼の特質から来ている。アメリカ版の『Let Me In』も同じ。
モリシーの詞はどういう意味なんだろうね。いつもながら彼の歌詞は意味深でわかりにくいが、私にはこれも吸血鬼の歌に思えるんだが。
なのにこれを『モールス』と訳した邦題はどうなの? 確かに2人がモールス信号で交信する場面はあるが、それは最初の方の数回しかなくて、2人にとって特に意味のある行為ではない。『モールス』という題ならモールス信号がもっと重要な役割を果たすと思うじゃない。内容とほとんど関係なさ過ぎるんだが。ラストの列車のシーンも完全に映画のオリジナルだし。

というわけで、私はスウェーデン映画がいちばんいいと思ったが、最初に述べたように三者三様の良さがあるので、一粒で三倍おいしい、なかなかの良作だった。

おまけ

せっかく作ったのに入れる場所がなかったスウェーデン版とアメリカ版の主役二人の素顔の比較。スウェーデン人のほうはたぶん映画の撮影時より数年後だと思われるが、二人ともちゃんと見られる顔になってる。それに引き替えコーディは、背だけは伸びたものの顔はフリーク‥‥という話はまた別の映画でする予定なので。

もいっこおまけ

morse-skyrim

こちらはSkyrim版エリとオスカル‥‥ではなくて、Skyrimに登場する少女吸血鬼バベットと、現在の自キャラである子供フィン。でも上の2組と並べても遜色ないね。金髪嫌いと言いながらカーレくんと同じヘアスタイルなのは、この子もノルドだからです。あー、Skyrimも原稿がたまってるのでアップしなくちゃ。

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