★★★【映画評】どん底(1957)黒澤明監督特集8

kurosawa-donzoko01ただでさえ陰気くさいロシア小説が原作、それも最底辺に生きる貧乏人の日常を描いた映画に、ここまで心動かされるとは思わなかった。黒澤映画でも三本指に入るぐらい好きな作品。ついでに左卜全にここまで魅せられるとも思わなかった(笑)。

「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」と書いたのはトルストイだが、金持ちというのは誰もが見るだけでむかつくが(笑)、貧乏人はそれぞれに不幸なので見ていて興味深い。


これ以上不幸にはなりようがないぐらいの状況で、映画の始まりよりはみんな確実に不幸になっただけで、誰ひとり幸せにはなっていないのに、なぜか吹っ切れたこの明るさはなんだろう?


どん底とは最底辺である。これ以上落ちようがないから、あとは死ぬか這い上がるだけだ。最初に述べたように、この長屋は明らかに定住の地ではない。彼らは皆、偶然ここに吹き寄せられて吹き溜まっているだけの風来坊なのだ。ここではないどこかを永遠に探し続け、木の葉のように漂う漂泊者、それが彼らだ。

スタッフ

監督: 黒澤明
脚本: 黒澤明、小国英雄
原作: マクシム・ゴーリキー
製作: 黒澤明
音楽: 佐藤勝
撮影: 山崎市雄
編集: 黒澤明

キャスト

またもロシア文学で、こっちはゴーリキーの戯曲が原作。これも私は読んでないし、この映画も見るのは初めてだ。こちらは舞台を江戸時代の長屋に置き換えているが、聞いたところではストーリーはほぼ原作通りらしい。
黒澤映画って『七人の侍』の印象が強すぎるせいか、ほとんどがオリジナル脚本かと思っていたら、原作付きがほとんどだということを、今回の一挙放映であらためて知った。そして原作を見事に換骨奪胎した翻案のうまさはもう言うまでもない。

ただ、題名からして『どん底』だし(笑)、例によってロシア文学特有の陰々滅々した暗~い話なんだろうなと思ったので、『白痴』同様というか、あれ以上にこれまで見る気が起きなかった映画。だから見るのは今回が初めてになる。
しかも、社会の底辺に生きる貧乏人の日常を描くって、貧乏は現実だけで十分っていう気も(笑)。黒澤映画には珍しく、低予算・早撮りっていうのも、ちっとも期待を抱かせるような要素じゃないし。

なのに見たらこんなにいい映画だったなんて! 『白痴』とのこの態度の違いは何なんだよ?

まず最初に惚れたのは、この「どん底」描写のすさまじさ。元々黒澤はこういうのを撮らせるとうまいとは思っていたが、ここに出てくる貧乏長屋の貧乏ぶりは聞きしに勝るすごさだ。
実は私、スクリーンで極貧の暮らしを見るのがけっこう好き。自分より下がいると思うとほっとするし(笑)。特に私は衣食住の中で住にいちばん関心があるので、食べるものがないとか服がボロいとかいうのを見てもなんとも感じないのだが、ひどい所に住んでいる人を見ると本当に気の毒でジーンとするし心から同情する。テレビは原則見ない私が「劇的!ビフォーアフター」だけはときどき見てるのも、あれに出てくるボロ屋が楽しみだから(笑)。

だから前に書いたインドのスラムとかもいいが、わりと感動したのは『アンジェラの灰』(リビューは旧サイトのひとりごと日記のほうにあります)のアイルランドの貧民の家かな。なにしろ「ヨーロッパの第三世界」だけあって、「着るものがないから裸、靴がないから裸足」というのもすごいと思ったが、雨が降るたび床上浸水するので(川の中に建ってるも同然なのね)、雨が降ると2階で生活する家というのはすごかった。
でもこの映画の長屋ときたらその比ではない。

実は昭和30年代の東京(中野区)にもまだ長屋はあった。
私が生まれた淡路町の家も、少女期を過ごした中野の家も、本当にちっぽけでおんぼろの、すきま風が吹き込むような家だったが、それでもいちおう一戸建てで二階屋だった。でも、同じような狭小住宅が密集する中野でも、「団地」住まいはバカにされがちで、その理由は団地に住んでる友達の家に遊びに行った時にわかった。
玄関入ったとたんに壁に突き当たるというか、ままごとのように小さいキッチンと風呂のほかは、四畳ぐらいの「団地サイズ」の小さな部屋が2つあるだけ。そこに両親と子供二人、お婆ちゃんの5人家族が暮らしているんだが、子供心にもショックを受けて、「ここでどうやって暮らしてるんだろう?」と思った記憶がある。テーブルとか机とかの家具なんか何もない部屋なんだが、おそらく夜は5人分の布団を敷いたら、この家の床は全部埋まってしまう。というぐらいの狭さ。

でも、長屋の子のうちはもっと悲惨で、本当の四畳半一間だけの家(風呂なし、トイレなし、キッチンなし、水道なし)に、親子4人が暮らしていた。四畳半の床の大半はなけなしの家財道具で埋まっているから、夜は大人は床の上、子供たちは押し入れに布団を敷いて寝るのである。風呂は銭湯、便所は共同。炊事洗濯は共同の洗い場でする。ここまで行くとかえってシュールに感じて、かわいそうというより楽しそうだと思った。なにしろ私もまだ幼かったものだから、押し入れで寝るなんてうらやましいと思って(笑)。

『どん底』の長屋の外観。周囲は石壁に囲まれていて陽も当たらない。

『どん底』の長屋の外観。周囲は石壁に囲まれていて陽も当たらない。

しかしこの映画の長屋はもっとすごくて、もう見た瞬間に口あんぐり。
まず、私の知ってる長屋はいくら小さくても、一所帯一部屋だったのに、ここでは一部屋に8人ぐらいが暮らしている。部屋を借りると言っているが、正確には部屋の中のスペースの空いてるところを占拠するだけである。そこに男も女も夫婦者もすし詰め。仕切りも何もなく、プライバシーゼロ。
私の友達の家みたいに、押し入れ(らしきもの)で寝起きしている人もいる。それでも畳の上(実は畳なんてなくて、藁を敷いただけ)で生活できるのはましなほうで、土間で寝起きしている人もいる。

家そのものもすごい。壁が斜めに30度ぐらい傾いていて、外からたくさんのつっかい棒を当ててどうにか倒れずに建っている。これは地震が来たらいちころだな。
障子はすべて破れてほとんど格子しか残ってないから外から風がびゅうびゅう吹き込むし、壁だってボロボロの穴だらけで、至るところ適当に板を打ち付けて補修してある。これはもうかろうじて雨が防げるというだけで、あとは屋外に暮らしてるのと変わりないな。

住んでる人間の身なりも、この住居にふさわしいもの。それでも着ている着物のボロさで懐具合が一目でわかるのがおもしろいんだが、ひどい人はつぎはぎなんてものじゃない(つぎはもちろん当たってるが)。かろうじて「元は着物であったことがわかる」程度の惨状で、生地がボロボロのすだれ状態のをやっと体に巻き付けているだけ。あまりに大量のつぎが当たってるのでパッチワークみたいだ。
家財道具らしきものは、職人の仕事道具を除けば穴だらけの汚い布団一枚(掛敷兼用)。
着たきり雀で洗濯なんてしそうにないし(洗濯したらおそらくバラバラになる)、風呂なんて一年に一度ぐらいしか入らなそうなんで、臭いもすごそう。(私が監督なら、床じゅうノミやシラミや虫だらけという描写を加えるが、これは冬の話っぽいので)
香川京子のインタビューを読んだら、汚いのは見かけだけではなく、本当に不潔だったそうで、当然ノミもわいていたそうだ。そんなところで演技する役者が可哀想すぎる!

住・衣と来たので食の話もしてしまうと、普通こういう庶民の暮らしを描いた話では、食べることが最大の関心事になるはずで食事シーンは付きもの。でもこの人たちは何も食べない。酒はひっきりなしに飲んでるが、食べ物が登場したのは最後のシーンのスルメ一匹だけだ。
長屋では煮炊きをせず、すべてが外食だったという話も読んだことがあるが(深川江戸資料館の長屋にはちゃんとかまどもあったが)、この人たちに外食できるほどの金があるとは思えないので、おそらくろくに食べてない。酒だけで生きてるとしか思えない。マジかよ?

ちょっとここまですごいのは、第三世界のスラムでだって見たことないや。いや、中にはそういう所もあるのかも知れないが、私は見たことない。戦時中の難民キャンプとかならわかる気もするけど。
棟割り長屋と解説にあったから、ちゃんと江戸時代の家の図面まで調べたが、いくら江戸時代でもやっぱり一所帯一部屋だよね。ほぼ私の記憶にある長屋と同じだった。深川江戸資料館(ここおもしろいよ。時代劇好きにはたまらないっす)には長屋の実物大セットがあるが、けっこう住みよさそうだったし、こんなにひどくない。

これはどういうことだ? あくまで映画の演出か? ちょっと『七人の侍』の百姓たちの泊まっている旅籠を思わせる(あれも相部屋だったし)が、原作の舞台は木賃宿だそうだから、そのイメージなのかな。もともとこの長屋自体、どこからどう見ても長く定住するようなまともな家ではなく、この掃き溜めまで流れてきた連中が淀んでいるだけの木賃宿みたいなものだからこれでいいのかも。
それにしても、貧しさの権化のようだった『七人の侍』の百姓たちだって、ちゃんと家もあるし飯も食ってるし、これよりはよほどましな暮らしをしていた。これぞまさに「どん底」ということなんだろうが、さすが黒澤、やることが半端ない。

長屋の内部 左から津軽、役者、遊び人、殿様

長屋の内部
左から津軽、役者、遊び人、殿様

そういうどん底に流れ着くだけあって、住人の顔ぶれもまさに社会の最底辺の縮図みたいになっている。
遊び人泥棒夜鷹、アル中で舞台に立てなくなった元役者没落した旗本、他もわずかばかりの金を稼いではすべて酒と博打に使ってしまうクズばかり
今ならさしずめ生活保護をもらって、すべてパチンコに注ぎ込んで溶かしてしまうたぐいの人間か。いや、この当時は「宵越しの金を持たない」ことが美学みたいに言われてたから、今とは違うし、だいたい江戸の福祉がどうなってたかは知らないが。

唯一というか、この中でいちばんまともそうなのは鋳掛屋(東野英治郎)。ちゃんと留吉という名前があるが、劇中ではみんなほとんど名前で呼ばれることはないし、鋳掛屋の方がぴったりくる。彼はここに住んで日が浅いせいか、まだ周囲に染まってなくて、いちばん勤労意欲があるように見える。
その代わり、自分は職人だから他の奴らとは違うとばかりに周囲の連中を見下していて、病気で死にかけている女房(三好栄子)をいたわる様子もないばかりか、優しい言葉ひとつかけようとしない。

映画の前半はこれらのどうしようもない連中が、博打を打ったり、酔っ払ってくだを巻いたり、ケンカをしたり、愚痴をこぼしたり、泣いたりわめいたりして過ごす、どうしようもない日常を淡々と描く
まるで舞台劇のように、長屋から一歩も出ることなく、舞台は長屋の一部屋と、長屋と大家の家の前の小さな空き地だけに限られる。群像劇で特に主人公というものはなく、ストーリーらしいストーリーもほとんどない。

唯一筋らしいものがあるのは、大家一家にまつわるエピソード。ちなみに江戸時代の長屋の大家は所有者じゃなくてただの雇われ管理人。よって、この一家も長屋の住人に毛が生えた程度の連中。しかも「大家と言えば店子にとっては親も同然」と言われるわりには、まったく情けのかけらもない、絵に描いたような業つくばりの因業オヤジと因業ババアのカップル

おかよちゃんを口説く捨吉。右にいるのが嘉平。

おかよちゃんを口説く捨吉。右で見ているのが嘉平。

大家の女房のお杉(山田五十鈴)は店子の泥棒・捨吉(三船敏郎)と浮気をしているのだが、捨吉は大家一家と同居しているお杉の妹かよ(香川京子)に惚れている。大家(中村鴈治郎)と女房はかよを女中同然にしてこき使っているのだが、特にお杉は捨吉をめぐる嫉妬から、いつもかよにつらく当たり、あの手この手でいびったりいじめたりしている。
捨吉はそんなかよを不憫に思い、なんとかここから連れて逃げだそうとしているのだが、かよは容易にその誘いに乗ろうとはしない。
そんな捨吉がますますかよに熱を上げるのを見て、お杉は取引を持ちかける。邪魔な夫を殺してくれれば、かよといっしょになるのを許してやるというのだ。これはもちろんお杉の策略で、厄介者の夫を始末し、罪は捨吉にかぶせることで、自分だけ自由になろうという魂胆がみえみえ。しかし、夫がかよにも色目を使っているというお杉の言葉に捨吉も心が揺れ動く。

『白痴』と同様の四角関係だが、『白痴』にはイライラさせられ通しだった私も、こっちは少なくとも心情は理解できるし、そのぶんこっちのほうがずっとおもしろい。

たとえば、捨吉がお杉と寝たのは、おそらくお杉に迫られて据え膳食っただけ。(いちおうエロい年増美人という設定) でも根が性悪なのはわかってるし、若く純真なかよのほうが圧倒的にかわいいし、できたら妹に乗り換えたい。ほっといたら大家夫婦に殺されかねないし。

しかし、かよから見れば捨吉は自分をいじめる鬼姉の愛人であり、大家とも通じてるし、完全に同じ穴のむじなにしか見えない。だいいち泥棒だし、いっしょに逃げようと言われても、とてもじゃないが信頼できない。でも若い女ひとりでは逃げても行き場もないし、いつか白馬の王子様がこの地獄から助け出してくれるのをぼんやり夢見ている状態。

お杉が捨吉を誘ったのは、おそらく最初は退屈しのぎと、年の離れた夫に対する当てつけ。だけどいつの間にか情が移り、捨吉がかよと浮気するのは許せない。よその女(妹だけど)にくれてやるぐらいならいっそ‥‥という感じ。ついでにウザい夫も片付けられれば一石二鳥。夫と捨吉がいなくなれば、好きなだけかよをいびりながら自由に暮らせるし。

いちばんわからないのは大家の心境で、しつこくお杉のあとを追い回しているから、色っぽい妻に嫉妬しているのは確かなんだが、妻の浮気を疑いつつも、妻を責めたり、捨吉と面と向かって対決しようとはしない。妻に捨てられるのが怖いのと、捨吉が暴力に訴えるのが怖いせいか? ある意味悪妻に振り回される気の毒な爺さんだが、罪もないかよに対する仕打ちを見ると、やっぱりまったく同情できない。
それに彼は妻の叔父の島造が下っ引きなのにも関わらず、捨吉が盗んだ品物の故買もやっているようで、やはり同じ穴のむじなで、表だって捨吉と対決できない事情があるのかもしれない。
ちなみに、捨吉が長屋の住人の中では唯一、独立した一間を使わせてもらい、着ている着物もいちおうちゃんとしているのは、このような事情で大家夫婦に貸しがあるためと思われる。

この四角関係は、ラスト近くで唐突に終わりを告げる。
いつものようにかよを追い回していじめていた夫婦に切れた捨吉が、近所の野次馬の目の前で大家を突き飛ばすのだが、打ち所が悪かったらしく大家は死んでしまう。それを見たお杉が声高に捨吉を殺人犯呼ばわりするので、追い詰められた捨吉は、お杉こそ夫殺しを持ちかけた犯人と非難する。それを聞いたおかよは、この二人がいっしょになるために共謀して大家を殺した、自分は単に利用されていたものと思い込み、捨吉とお杉を殺人犯として役人に告発する
この訴えが通り、捨吉とお杉は投獄され、かよは家出して行方不明になる。(原作では狂死するんだっけ?)

これはおそらく原作のままなんだが、なんともやりきれないエピソードだ。特に、捨吉のかよに対する気持ちは(わりと)真摯なものだし、かよにとってはこの地獄から抜け出す唯一の手がかりが捨吉だったのに、誤解から自らそれをふいにしてしまうところが。

結局、(4人とも)ただでさえ底辺の人間が自ら選んで、より下に墜ちていったというだけの話。しかし、『どん底』でいちばん印象的なのはこの話ではない

『七人の侍』で左卜全を名優とほめたたえたとき、まさか彼が主役の映画があるなんて思ってもみなかったんだが、実はこの映画がそうだった。それぐらい、左が演じるお遍路さん(名前は嘉平)はこの映画の中では異彩を放っている。
嘉平は物語の途中で長屋へやってくるアウトサイダーで、それだけでも周囲の人間からは浮いているのだが、欲と無気力に支配された長屋の人間の中では完全に異質だ。

屈託のない笑顔の嘉平。右にいるのは大家夫婦。

屈託のない笑顔の嘉平。右にいるのは大家夫婦。

いつも穏やかな笑みを絶やさず、弱い者や苦しんでいる者には優しく接し、いじめや暴力はさりげなくたしなめる。その様子はあたかも長屋に舞い降りた(いささか薄汚い)天使のようで、最初は反発して食ってかかっていた長屋の連中も、徐々に嘉平の術中にはまっていく。
まあ、彼が人がいいのはお遍路さんという仏教者だからとも考えられるが、嘉平はさらに一歩踏み込んで、今風に言えばカウンセラーみたいなことまで始める。つまり、長屋の住人の果てることもない繰り言やたわごとに、辛抱強くじっと耳を傾け、彼らに希望を与えるのだ。

たとえば、役者にはアル中を無料で治してくれる寺があると言い、瀕死の病人である鋳掛屋の女房には極楽と阿弥陀仏の救いを説く。今にも爆発しそうな捨吉には、早まったらおしまいだといさめ、かよを連れてすぐに逃げろと勧める。単に話を聞いてほしいだけの連中には、どんなうさん臭い話もニコニコと頷きながら聞いてやる

まさに天使か仏のような人物に見えるが、ことはそう単純ではない。

藁をもつかむ思いの病人や女はともかく、人間観察には長じている長屋の住人はすぐに気付くのだが、この嘉平という男、その余裕たっぷりの態度はどう見ても貧乏遍路には見えないし、口もうますぎる
いよいよ(捨吉と大家の件が)ヤバくなると、逃げるようにそそくさと消えてしまうのも変だし、何かの理由で遍路に身をやつしているだけの人間という感じが見え見えだ。実際、長屋の住人の大多数は、悪い奴ではないと認めながらも、彼の言葉をまったく信じていない。

そして結末も、嘉平の言葉を裏切るものとなる。
病気の女房は嘉平の言葉を聞き、「あの世に苦しみがないのなら、この世でもう少し辛抱してもいいよ」と言って、苦しみに耐える勇気を奮い起こし、生きる希望を抱くのだが、その直後に息を引き取ってしまう
役者も嘉平に勇気づけられて、酒をやめ、アル中を治して舞台に戻ることを決意するのだが、嘉平が突然いなくなったあと、彼の言葉はみんな嘘だった、ただで療養させてくれる寺なぞあるものかと言われて、絶望のあまり首をくくってしまう捨吉とかよに起こったこともしかり。
つまり嘉平が語って聞かせた言葉はすべて甘い嘘で、現実はそれよりはるかに苦いものだったのだ。この皮肉な結末が、やりきれないと同時になんともいい。これぞまさにリアルだという気がして。

ならばこの男は悪魔かというと、もちろんそんなことはない。もしかして遍路というのは嘘だし、彼の言うこともすべて嘘だったとしても、持ち前の優しさから、苦しんでいる人々につかの間でも希望を与えようとしたのかもしれない。実際、嘉平は遊び人に「適当な嘘ばかり言うな」と非難されると、嘘だということは否定せず、「だがな、兄さん、この世の中で嘘が悪いとばかりは限らねえよ」、「嘘の方が本当よりよっぽどおもしろい」と答えるのである。同様に捨吉に「阿弥陀なんてものが本当にいるのか?」と詰問されると、「いてほしい人にはいるだろうさ」と言葉を濁す。

ならば嘉平は何者なのか?という疑問にも、映画はそれとなくヒントを与えてくれる。『どん底』の住人はみんなそれぞれに、ここへ墜ちてきた理由があるのだが、遊び人(三井弘次)は見るからに頭も切れ、ここにはふさわしくない感じの人物である。それを嘉平に指摘された遊び人は、実はものの弾みで人を殺してしまい、釈放された時はもう社会に居場所がなくなっていたのだと打ち明ける。
それを聞いた嘉平は、「あっけねえもんさ。ものの弾みでやっちまうのよ」とうなづくのだ。どう考えても体験者は語るですね。
そこで私の推理だが、おそらく嘉平はどこかで人を殺して、お上の目を逃れて逃げている凶状持ち(逃亡犯)。他人に優しいのは、自分の罪を深く悔いているためか、はたまた元々優しい性格だったのか。それとも、鋳掛屋の女房に「おじいさん、あんたいい人だね」と言われた時に返したせりふ、「わしは河原の石ころさ。さんざんもまれて丸くなったのさ」を信じるならば、若い頃はとんがっていたが、長年の逃亡生活のうちに、ある種の悟りに達したのか?

実際、嘉平は最初に捨吉が大家を殺しそうになったときは、出て行けと言われたのに、まるでそうなるのを見越したかのようにこっそり物陰に隠れ、あわやという時に声を立てて捨吉を救っている。明らかに捨吉が自分の二の舞になることから救ったのである。
ならば、とうとう捨吉が大家を殺した時にはなんで逐電したのかという疑問が生まれるが、たぶん事態が彼の手に負えないところまで来てしまったことを悟り、どうしても役人と顔を合わせるわけにはいかないので逃げた、という推理が成り立つ。

すばらしい! こういう天使でも悪魔でもない、だけど一筋縄ではいかない影を持つ両義的な人物って大好き! しかも左卜全の飄々とした演技がまたすばらしい。
しかし驚いたなあ。左卜全はもともと好きだしすばらしい役者だとは思っていたけど、それは『七人の侍』でほめたように、地(?)のままの自然な演技がすごいからで、こういうのができるほど老獪な役者とは思ってなかったので。
でも裏を返せば、あの見るからに人畜無害で人の良さそうな笑顔があるからこそ、嘉平の言葉が重みを持つんだよなあ。ほんと役者も監督も、名台詞だらけの脚本もすごいとしか。ただやっぱり「左卜全にしちゃ生意気」とは思うけど(笑)。

しかし、すごいと言えば役者は全員すごい。いつもなら凝りまくるセットや撮影にお金をかけなかったぶん、超一流の役者だけを使って(黒澤映画はいつもそうだが)その連中に好きなようにやらせたという感じ。それじゃ簡単に役者評も。もちろん、ここで飛び抜けたナンバーワンは左卜全だけど。

三船敏郎はあくまで脇役というせいもあるが、いつもほどおもしろくないし、颯爽ともしていない。あくまで脚本通りのキャラクターって感じ。
『蜘蛛巣城』のマクベス夫人で私をビビらせてくれた山田五十鈴は、ここでも同じような毒婦を演じてやっぱりすごく怖い(笑)。ただ、あのメイクがないぶん、素顔はやっぱり美人だったのがわかるね。マクベス夫人、じゃなかった、浅茅よりずっと人間くさいぶん、哀れさもあってすごく良かった。
その夫の大家を演じた二代目中村鴈治郎は、逆に一目でわかる歌舞伎役者顔なんで笑ってしまった。メイクも心なしか歌舞伎っぽくて、なんとなく周囲の人物から浮いてる。演技力はもちろんなんの文句もないですけど。

かよを演じた香川京子はこれで黒澤に気に入られたらしく、後に黒澤映画の常連になるが、透明感のある可憐な美しさが掃き溜めに咲いた一輪の花という感じですごくいい。あまりにも救いのないかわいそうな子なんだけども。
そう言えば、姉と捨吉に利用されたと思って発狂したかよが、石垣にガンガン頭をぶつけるシーンがあって、私は「たぶん痛くない素材でできてるんだろうけど、若い女の子にあそこまでさせるとは‥‥」と思って見ていた。
ところが香川京子のインタビューを読んだら、あれは脚本にはないアドリブで、演じているうちに感極まって、無意識のうちにガンガンやってたのだという。すげえ! あんなかわいい顔してそこまでやるか? 『地獄の黙示録』のマーティン・シーンのエピソードを思い出す。それは確かに監督に気に入られるはずだ。

他でいちばん目立ってたのは役者役の藤原釜足あの個性的な顔だし、あの芸達者だからどこにいようと目立つんだが、終始ろれつの回らない(「ごろうろっぷ」)せりふで、よくやるわ。元が役者だけに、所作もせりふ回しも大げさで芝居がかってるんだが、もう楽しんでやってるのが明らかで、見てるほうも楽しい。
藤原釜足とつい対にして考えてしまう、やはり常連の千秋実は「殿様」役。本当か嘘か、かつては豪壮な屋敷を構えていた(嘘だと言われた時の動揺ぶりをみるとたぶん事実なんだが)没落した元旗本。そのくせ貧乏という点では、長屋でも一二を争う貧乏人なのが泣かせる。過去の栄光だけにすがって生きているなんてみじめすぎる感じだが、あまりにみじめなのでかえってみんなに「よしよし」されてる感じが、熊みたいな風貌と合わせて変にかわいい。

夜鷹のおせんを演じた根岸明美も、脇役だけど忘れがたい演技を見せてくれる。夜鷹のしたたかさと、いつまで待っても来ない白馬の王子様(こればっか)を待っている少女のようなナイーブさが交互に見えるあたり。

遊び人の喜三郎を演じた三井弘次も、遊び人にしちゃ、いや遊び人だからかやけにかっこいい儲け役。魚屋みたいなだみ声が印象的。
と言ってももしかして今の人には通じないか? 昔の魚屋とか八百屋は、一日中「えー、安い安いよサンマが安いよ」とか怒鳴っているせいか、すごいだみ声の人が多かったのだ。まさにあの声。

絶望の極にある鋳掛屋

絶望の極にある鋳掛屋

鋳掛屋は後の黄門様、東野英治郎。関係ないが、私は水戸黄門は東野英治郎以外認めない
でも若かったこの頃は不器用な頑固職人を演じてこれも名演。ただし他の連中同様、この男もはっきり言ってクズ。上記のように彼は自分には仕事があるという理由で、長屋の他の連中を見下しているのだが、見た感じ腕も良さそうだ。ならばそんな男がなんでこんな所まで墜ちてきたのか?という疑問が浮かぶ。
これは完全に私の空想だが、理由はやはり女房の病気しか考えられない。おそらく女房の薬代や医者代に財産を使い果たし、すべてを手放すしかなかったんだろう。それを思うと、女房に対する冷たい態度も少しわかるような気がする。
すべてを失ったけど、治る見込みはまったくないとなれば、いっそこれ以上苦しむより死んでほしいと思うよね。介護疲れもあるだろうし。それで、女房さえ死んでしまえば、こんな所からはさっさとおさらばして仕事に精を出そうと思っているらしいんだが、皮肉なことにやっと女房が死んで解放されたと思ったら、葬式代を払うために、生きる糧である仕事道具を手放すはめになる
ここで絶望のあまり狂乱する鋳掛屋が本当に哀れなんだが、いったんすべてを失ってしまうと、なぜか吹っ切れたらしく、それまで苦虫を噛み潰したようだった表情も明るくなり、まったく交流しようとしなかった長屋の連中とも親しく酒を酌み交わすようになる。

う~ん、考えさせますねえ。遍路の話もそうだが、こういうところもこれが単なるどん底の惨めな人々を描くのが目的の映画ではないことの根拠となる。
「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」と書いたのはトルストイだが、金持ちというのは誰もが見るだけでむかつくが(笑)、貧乏人はそれぞれに不幸なので見ていて興味深い。そういや、『白痴』にむかついた理由のひとつって、登場人物がみんな金持ちってこともある(笑)。
つまり私が好きな邦画の条件を整理すると、まず時代劇であることと、貧乏人が主役であることというわけだ。そんな映画そうそうあるか! これじゃあ、私が邦画離れするのも当然だわね(笑)。

なんか結論っぽいものが出てしまったが、役者の話を続けると、あとはほとんどがコミックリリーフだが、桶屋の辰を演じた田中春男、駕籠かきの熊を演じた渡辺篤、下っ引きの島造の上田吉二郎、鼓を抱えた卯之吉の藤木悠、太っちょの東北人・津軽の藤田山(「夜は寝るだ!」)と、とにかく顔見てるだけでもおかしい芸達者が顔を揃える。

そしてこいつらが馬鹿囃子を始めたとたん、「暗くて気が滅入りそうな映画」という私の先入観はすべて吹っ飛び、私もいっしょに踊り出したいぐらい楽しくなった。

馬鹿囃子を踊る面々 左から津軽

馬鹿囃子を踊る面々
左から桶屋、津軽、卯之吉、熊

そう、なんか「長屋ラップ」とか言われているが、これはむしろラップと言うよりボイパ(ボイス・パーカッション。英語で言うとhuman beatbox)でしょ。「コンコンチキのコンキチショー」という身も蓋もない罵り言葉が、やがてリズムを持ち、ひとりひとりが笛や太鼓などの異なるパートを受け持って、やがてにぎやかな祭り囃子が生まれる。

YouTubeの「どん底 俳優名鑑」でこの馬鹿囃子が聞けます。(音のみ)

あー、なつかしくて涙が出る。いや、馬鹿囃子なんてこの映画見るまで知らなかったが、この手のボイパは(信じようと信じまいと)40年前のバンド少年たちもやっていたものなのだ。(10-20代の頃そういう連中と付き合っていたので)(もちろん曲はだいぶ違うけどね)
退屈したりすると誰かが無意識に口でリズムを刻み始め、すぐにベースやギターやキーボードも加わって、口だけで演じるセッションが始まる。これがさすがというかびっくりするほどうまくて、本物そっくりなので感心していたが、やってる本人たちもほんと楽しそうだった。なんかあの頃を思い出す。
黒澤はどの映画でも必ずと言っていいほど、音楽でも驚かせてくれるんだが、そういう個人的な思い出もあって、これはその中でも白眉だね。

そうやってみんなが気持ちよく踊っていると、顔面蒼白の殿様と夜鷹が飛び込んできて、「役者が裏の崖で首を吊った」と告げる声に全員がその場で固まる。ここで遊び人がアップになり、「チェッ、せっかくの踊り、ぶち壊しやがった‥‥馬鹿野郎」とつぶやくと同時に、拍子木がカンッと鳴って「終」の文字。このエンディングの唐突さもすごすぎて言葉を失う。

役者の自殺の知らせに固まる長屋の面々

役者の自殺の知らせに固まる長屋の面々

というわけで、はっきり言ってアンハッピーエンドもいいところ。鋳掛屋の女房と役者と大家は死に、大家の女房と捨吉は牢屋、鋳掛屋は破産、かよは行方も知れない。これ以上不幸にはなりようがないぐらいの状況で、映画の始まりよりはみんな確実に不幸になっただけで、誰ひとり幸せにはなっていないのに(*)、なぜか吹っ切れたこの明るさはなんだろう? 不思議と後味がよくて、妙なカタルシスが得られるのだ。
これは明らかに得体の知れない怪しい人物であるにも関わらず、遍路がいい人間に見えるのと似ている。

*注 唯一、お杉の叔父の島造だけは、無人になった大家の家を使えるようになって前より幸せと言えるが。

その遍路は姿を消す前、「どこ行くんだい?」という問いに、

「それがわからねえから出かけんのさ。どっかにもっといい所がある。誰でもそう思って探してんのさ」

と答える。このセリフ(これまた左卜全にしちゃかっこよすぎるが、こういう歯の浮くような決めぜりふもあの飄々とした顔、訥訥とした口調で言われると腹が立たない)がこの映画を象徴しているように思える。

どん底とは最底辺である。これ以上落ちようがないから、あとは死ぬか這い上がるだけだ。最初に述べたように、この長屋は明らかに定住の地ではない。彼らは皆、偶然ここに吹き寄せられて吹き溜まっているだけの風来坊なのだ。ここではないどこかを永遠に探し続け、木の葉のように漂う漂泊者、それが彼らだ。

最初、この貧しさを何に例えようと考えて、「アメリカの黒人奴隷みたいな」と書こうとして、ふと思いとどまった。生活レベルはいっしょかもしれないが、この人々には黒人奴隷にはなかったものがある。それは自由だ。というか、何の責任もしがらみもない「持たざる人々」であるために、ありあまった自由。(ちなみに『アミスタッド』を見たのはこれを書いたあと。自分で書いたこの文が引っかかったので『アミスタッド』を見る気になったのだが、見るんじゃなかった)

仕事や女房に縛り付けられていた鋳掛屋があんなに不幸そうだったのに、すべてを失ったとたん、あれほど晴れ晴れと明るくなったのもそれだろう。職を失って呻吟する鋳掛屋に、遊び人が「もうこうなったら世間様におんぶして生きることを考えなよ」と言うと、鋳掛屋が「そんなみっともないことはできないからつらいんだ!」みたいに言い返す場面がある。(この辺、言葉は正確じゃないかも) その鋳掛屋がラストで生き返ったように晴れ晴れとしているのは、最後に残ったもの=プライドを捨てて、真の自由を手に入れたからだろう。

こんな境遇なのに彼らがあれほど楽しそうに見えるのも、私がなぜか貧乏生活にあこがれるのも根はそこ。
考えてみればこの私も、なんとか正業に就くことから逃れようと逃げ回ったあげく、文学屋なんていうおよそなんの役にも立たない仕事を選んで、しかも就職したと思ったらすぐに辞めて、結婚とか子育てとかいう面倒なことからもずっと逃げ続けて、この年までフリーター稼業という、れっきとした現代の遊び人だよなあ(笑)。
やっぱり私には『生きる』みたいな優等生ぶった映画より、この映画のほうがはるかに生きる勇気を与えてくれるし、『生きる』の志村喬みたいなまじめ一筋の人間より、この映画のろくでなし連中のほうがずっと身近に感じるし共感できるわ。

ここから這い上がれるかどうかはまた別として、結局、こういう世界で生き残れるかどうかは「馬鹿囃子が踊れるか?」ってところにかかってると思う。私は自信を持って踊れると言い切れますね。それができない人は絶望して自殺したりする。でも自殺なんかするより馬鹿になって踊るほうが楽しいよ。

だけど楽しい時間はやがて終わる。そして私たちはまた旅立つのだ。あるのかどうかもわからない「ここよりましなどこか」を求めて。